1955年7月 宜野湾村 伊佐浜とは? わかりやすく解説

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1955年7月 宜野湾村 伊佐浜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 05:31 UTC 版)

銃剣とブルドーザー」の記事における「1955年7月 宜野湾村 伊佐浜」の解説

1945年沖縄戦で、日本軍宜野湾地形を反斜面陣地として利用し激戦地となったため、多く住民犠牲になった6月には普天間飛行場建設始まり、他にもキャンプ・マーシーキャンプ・ブーンといった多く基地作られたため、沖縄戦生き残り米軍民間人収容施設送られ住民帰村極めて困難なものとなった1954年4月米軍は「沖縄有数美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地に、水稲の植付を禁止する指令出した理由は、発生し脳炎媒介するとのものであったそののち民政府は住民立ち退き勧告したキャンプ瑞慶覧拡大の為だった。住民は「私が車に轢ひき殺されたとしても、我々の生計保障されない限り、私は伊佐浜を出て行かない」「戦争終って10年が経つ今日、我々の生計基盤伊佐浜の土地託されたのだ」と激しく立ち退き抵抗した。これらの住民発言当時米国民政府公安局翻訳し記録している。 1955年3月11日一部地域強制接収執行され、翌12日には座り込みをしている住民強制退去させられた。7月19日、暗いうちに武装兵乗せたトラックブルドーザーライト消して地域包囲し早朝4時半、厳戒態勢の中で銃剣構えた米兵警備する中、水田砂利落としこまれ、ブルドーザー耕地地ならし始めた住民200人が駆け付け中止させたが、区長基地連行され取り調べ受けた30世帯あまりの住民が生活の場を失い追い立てられた。 米軍との妥協強いられる村の男たちの一方で交渉現場から疎外されていた伊佐浜の女たち20人は「農地一つないところへ移動して子供達養育できない」と強く琉球政府主席直訴行った伊佐土地闘争伊佐浜の女性たちが声を上げリードしていった。 無力無抵抗のわれわれ農民にたいして、アメリカ軍おこなった暴力行為は、われわれは永久に忘れることができません。銃剣突きつけて、うろたえる女子供を、田んぼにとってなげる沖縄戦さながら光景でございました。 — 伊佐浜の女性回想望郷米軍から追われ32世帯住民約140人は住む場所を奪われ戦争引揚者収容施設だった沖縄市高原のインヌミヤードイのトタン屋根暮らし強いられた (1956年9月エマ台風壊滅的な被害受けた) 。そのうち10世帯60人は琉球政府薦めブラジル移住決断し1957年の夏にサンパウロ州サントス市向けて出発した人種差別のない新天地といわれたが、劣悪な環境インフレの波で過酷な生活を強いられた10家族のうち1世帯は7年後帰郷する。またボリビアオキナワ移住地移住する家族もいた。

※この「1955年7月 宜野湾村 伊佐浜」の解説は、「銃剣とブルドーザー」の解説の一部です。
「1955年7月 宜野湾村 伊佐浜」を含む「銃剣とブルドーザー」の記事については、「銃剣とブルドーザー」の概要を参照ください。

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