1955年7月 宜野湾村 伊佐浜
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「銃剣とブルドーザー」の記事における「1955年7月 宜野湾村 伊佐浜」の解説
1945年の沖縄戦で、日本軍は宜野湾の地形を反斜面陣地として利用し激戦地となったため、多くの住民が犠牲になった。6月には普天間飛行場建設が始まり、他にもキャンプ・マーシー、キャンプ・ブーンといった多くの基地が作られたため、沖縄戦を生き残り、米軍の民間人収容施設に送られた住民の帰村は極めて困難なものとなった。 1954年4月、米軍は「沖縄有数の美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地に、水稲の植付を禁止する指令を出した。理由は、蚊が発生し脳炎を媒介するとのものであった。そののち民政府は住民に立ち退きを勧告した。キャンプ瑞慶覧の拡大の為だった。住民は「私が車に轢ひき殺されたとしても、我々の生計が保障されない限り、私は伊佐浜を出て行かない」「戦争が終って10年が経つ今日、我々の生計の基盤は伊佐浜の土地に託されたのだ」と激しく立ち退きに抵抗した。これらの住民の発言は当時の米国民政府公安局が翻訳し記録している。 1955年3月11日、一部地域の強制接収が執行され、翌12日には座り込みをしている住民が強制退去させられた。7月19日、暗いうちに武装兵を乗せたトラックとブルドーザーがライトを消して地域を包囲し、早朝4時半、厳戒態勢の中で銃剣を構えた米兵が警備する中、水田に砂利が落としこまれ、ブルドーザーが耕地の地ならしを始めた。住民約200人が駆け付け中止させたが、区長は基地に連行され、取り調べを受けた。30世帯あまりの住民が生活の場を失い追い立てられた。 米軍との妥協を強いられる村の男たちの一方で、交渉の現場から疎外されていた伊佐浜の女たち約20人は「農地一つないところへ移動しては子供達の養育はできない」と強く琉球政府の主席に直訴を行った。伊佐浜土地闘争は伊佐浜の女性たちが声を上げリードしていった。 無力、無抵抗のわれわれ農民にたいして、アメリカ軍がおこなった暴力行為は、われわれは永久に忘れることができません。銃剣を突きつけて、うろたえる女子供を、田んぼにとってなげる沖縄戦さながらの光景でございました。 — 伊佐浜の女性の回想『望郷』 米軍から追われた32世帯、住民約140人は住む場所を奪われ、戦争引揚者の収容施設だった沖縄市高原のインヌミヤードイのトタン屋根暮らしを強いられた (1956年9月のエマ台風で壊滅的な被害を受けた) 。そのうち10世帯60人は琉球政府の薦めでブラジル移住を決断し、1957年の夏にサンパウロ州サントス市に向けて出発した。人種差別のない新天地といわれたが、劣悪な環境とインフレの波で過酷な生活を強いられた。10家族のうち1世帯は7年後に帰郷する。またボリビアのオキナワ移住地に移住する家族もいた。
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