1955年3月 伊江島 真謝・西崎
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「銃剣とブルドーザー」の記事における「1955年3月 伊江島 真謝・西崎」の解説
1945年4月16日、沖縄戦の伊江島の戦いでは、日本軍の「東洋一」とよばれた飛行場があったため米軍の6日間の激しい攻撃の標的となった。軍民一体となった島ではアハシャガマやユナパチクなどの壕では住民の集団死などもおこり、人口約半数の1,500人の島民の命をうばわれた。米軍はその後、伊江島補助飛行場を建設するため、捕虜となった住民をまだ日本軍が潜伏する渡嘉敷島や、沖縄本島北西部の名護市辺野古にある最も劣悪な環境にあった大浦崎収容所に強制収容した。伊江村の帰島が許可されたのは1947年3月のことだった。翌年の1948年8月6日には、伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故がおこり、死者107名、負傷者70名という米軍統治下で最も多くの犠牲者をだした。 1953年7月15日、米軍は地上標的を作るとの目的で伊江村真謝、西崎の住民に立ち退きを通告し、1954年に工事を始めた。 1955年3月10日、米軍は最後通告を行い、翌11日に杭を打ち始めた。地元住民は中止を嘆願するが、14日には家屋に火をつけ、ブルドーザーで家屋や飲料水タンクを次々と引き倒し接収した。近年の資料でわかったのは、この新たな戦闘爆撃機は、LABS(低高度爆撃法)という当時開発されたばかりの核爆弾投下の模擬訓練をおこなうためのものだった。 阿波根昌鴻らは7月から翌年の1956年2月にかけて沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行って、米軍による土地強奪の不当性を訴え、1956年夏の島ぐるみ土地闘争に大きな影響を与えた。 1961年に「伊江島土地を守る会」を結成し、団結道場を真謝に建設し、当時の歴史を今に伝えている。
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