1955年 - 1962年:計画・設計・建設
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「TWAフライトセンター」の記事における「1955年 - 1962年:計画・設計・建設」の解説
アイドルワイルド空港は1939年に開港した。その後ゲートが55個のターミナルを建設する計画が立てられたが、これに各航空会社が将来の航空需要の増加に対応しきれないと反発した。計画は改訂され、1955年に航空会社の了承を得られた計画が立案された。この計画では大規模な航空会社が自社用のターミナルを持ち、小規模な航空会社は国際線ターミナルを発着するように計画されており、全部で7つのターミナルが建設されることとなった。この計画で自社単独ターミナルを持つこととなったのは6社で、ユナイテッド航空 (最終的にデルタ航空との共用化)、アメリカン航空、パンアメリカン航空、イースタン航空、ナショナル航空、そしてトランス・ワールド航空であった。 トランス・ワールド航空は1955年、エーロ・サーリネンとデトロイトに拠点を置く彼の建築設計事務所に自社ターミナル「TWAフライトセンター」の設計を依頼した。サーリネンはこれを引き受け設計を開始したが、初期の設計案に不満を持ち設計見直しの為にトランス・ワールド航空に期間延長を求め、問題解決には1年もの期間を要した。そうしている間にその他のターミナルは続々と建設が進み、1957年12月に開業した国際線到着ターミナルを皮切りに、1959年10月にユナイテッド航空・デルタ航空の第7ターミナル、翌11月にイースタン航空の第1ターミナル、1960年にアメリカン航空の第8ターミナルとパンアメリカン航空のワールドポート(英語版) (第3ターミナル) が開業した。TWAフライトセンター(第5ターミナル)は1962年にノースウエスト航空・ブラニフ航空・ノースイースト航空(英語版)の3社共用の第2ターミナルと共に開業し[9]、更に遅れること8年後の1969年にナショナル航空のサンドローム(英語版)(第6ターミナル)が開業して全ターミナルが供用開始された。 ターミナルは薄型シェル構造の先駆的な作品であり、シェルは鉄筋コンクリート造である。屋根部分の設計のため、サーリネンはアンマン・アンド・ホイットニー社のチャールズ・S・ホイットニーとボイド・G・アンダーソンに協力を仰いだ。彼らは1953年から1955年にかけて建設されたマサチューセッツ工科大学講堂のクレスゲ・オーディトリアム(英語版)の設計にサーリネンと共に携わっていたほか、ワシントン・ダレス国際空港のメインターミナルの設計にも共に携わっていた。 サーリネンの事務所の社員ではケヴィン・ローチ、シーザー・ペリ、ノーマン・ペトゥラ、エドワード・サードらが重要な共同設計者であった。また、インテリアの設計は主にウォーレン・プラートナー(英語版)が担当していた。サーリネンの妻であるアリーン・サーリネンは1957年11月12日の最初の公開プレゼンテーションから1962年5月28日の開業までの間、ターミナルを中心としたマーケティング活動のためにトランス・ワールド航空と協力していた。 サーリネンはターミナル完成前の1961年に脳腫瘍で亡くなったが、ケヴィン・ローチとジョン・ディンクルーが跡を継いでターミナルの建設を主導した。
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