1955–1982: ヨーロッパカップでの成功と13年間の国内無冠
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UEFAチャンピオンズカップ が1955年から開催。直前のシーズンでは国内3位の結果であったもののオーストリア・ブンデスリーガ最多優勝クラブとしての実績が買われUEFAチャンピオンズカップへの参加をUEFAより要請された。同大会初シーズンとなった1955–56年シーズン、オランダ王者のPSVアイントホーフェンを6-2の合計スコアで破ったが、準々決勝でイタリア王者のACミランを相手に敗退する。 その後も同大会ではホームでACミランやスペインの王者レアル・マドリードを相手に勝利するなど好成績を収めた。1960-61年シーズンに準決勝にまで進出したのがUEFAチャンピオンズカップでの最高成績となる。その後も1967年のUEFAカップウィナーズカップ では準々決勝(延長戦でFCバイエルン・ミュンヘンを相手に敗退)まで進み、1969年のUEFAチャンピオンズカップではスペインの王者レアル・マドリードを破り再び準々決勝まで駒を進めた(マンチェスター・ユナイテッドを相手に敗退)。 オーストリア国内では1955-56年シーズンから1967-68年シーズンの間で6度のリーグ優勝を決めたものの、その後は1981-82年シーズンまでの13年間は主にFCヴァッカー・インスブルックとFKアウストリア・ウィーンに優勝を重ねられ無冠の時を迎えた。 それでも国内最多リーグ優勝クラブとしての人気は国内屈指で1962-63年シーズンでは第1節のウィーナー・スポーツ=クラブ戦では74000人の観客がエルンスト・ハッペル・シュターディオンに集まった。 また1970年代には歴史に残る名FWハンス・クランクルを生み出した。クランクル1977-78シーズンに41得点をあげてオーストリア・ブンデスリーガ得点王を欧州各国リーグ戦の最多得点者に贈られるヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞。1978年の夏にはスペイン・プリメーラ・ディビシオンの名門FCバルセロナに移籍。この移籍は同年春に退団したヨハン・クライフの後継者を求めていたバルセロナ側のアプローチにより実現し、同クラブでの初シーズンとなった1978-79シーズンではリーグ戦で18得点を記録し得点王となり、ピチーチ賞も受賞。さらにはUEFAカップウィナーズカップとコパ・デル・レイでの優勝も果たした。
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