第32回天皇杯全日本サッカー選手権大会
(1952 Emperor's Cup から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 09:49 UTC 版)
開催国 | ![]() |
---|---|
開催期間 | 1952年5月3日-5月6日 |
参加チーム数 | 15 |
優勝 | 全慶應 |
準優勝 | 大阪クラブ |
試合総数 | 15 |
ゴール数 | 56 (1試合平均 3.73点) |
← 1951
1953 →
|
第32回天皇杯全日本サッカー選手権大会(だい32かいてんのうはいぜんにほんサッカーせんしゅけんたいかい)は、1952年(昭和27年)5月3日から5月6日まで静岡県藤枝市の静岡県立藤枝東高校グラウンドにおいて開催された天皇杯全日本サッカー選手権大会である。
概要
本大会には15チームが参加。前回優勝(慶應BRBとして)の全慶應と開催地の志太サッカーが協会推薦を受けた[1]。
決勝は全慶應と大阪クラブという前回と同じ顔合わせになった。全慶應は前半のうちに4-0と大差をつけ、後半も得点を重ねて一時は6-0とした。試合終盤に大阪クラブも2点を挙げたが、6-2で全慶應が優勝した[1]。
出場チーム
- 全慶應(協会推薦・前回優勝、初出場)
- 志太サッカー(協会推薦・開催地、2年ぶり2回目)
- -(北海道)※未選出
- 仙台サッカー(東北、2年連続5回目)
- 全立教(関東、2年連続2回目) - 準々決勝から
- 明治大学(関東、初出場)
- 東京教育大学(関東、17年ぶり2回目)
- 韮葉クラブ(中部、2年連続2回目)
- 富山サッカー(北陸、2年連続2回目)
- 刈谷サッカー(東海、3年連続3回目)
- 大阪クラブ(関西、2年連続2回目)
- 関学クラブ(関西、22年ぶり3回目)
- 六甲クラブ(関西、初出場)
- 東洋工業(中国、3年ぶり2回目)
- 松山クラブ(四国、初出場)
- 島原クラブ(九州、初出場)
結果[1]
1回戦 | 準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | |||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
全慶應 | 4 | |||||||||||||
1952年5月4日 | ||||||||||||||
仙台サッカー | 0 | |||||||||||||
全慶應 | 3 | |||||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
東洋工業 | 0 | |||||||||||||
東洋工業 | 3 | |||||||||||||
1952年5月5日 | ||||||||||||||
六甲クラブ | 2 | |||||||||||||
全慶應 | 1 | |||||||||||||
関学クラブ | 0 | |||||||||||||
全立教 | ||||||||||||||
1952年5月4日 | ||||||||||||||
北海道(棄権) | ||||||||||||||
全立教 | 0 | |||||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
関学クラブ | 1 | |||||||||||||
刈谷サッカー | 0 | |||||||||||||
1952年5月6日 | ||||||||||||||
関学クラブ | 2 | |||||||||||||
全慶應 | 6 | |||||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
大阪クラブ | 2 | |||||||||||||
志太サッカー | 3 | |||||||||||||
1952年5月4日 | ||||||||||||||
富山サッカー | 0 | |||||||||||||
志太サッカー | 3 | |||||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
松山クラブ | 0 | |||||||||||||
松山クラブ(抽選) | 2 (aet) | |||||||||||||
1952年5月5日 | ||||||||||||||
明治大学 | 2 | |||||||||||||
志太サッカー | 1 | |||||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
大阪クラブ | 3 | 3位決定戦 | ||||||||||||
東京教育大学 | 6 | |||||||||||||
1952年5月4日 | 1952年5月6日 | |||||||||||||
韮葉クラブ | 0 | |||||||||||||
東京教育大学 | 1 | 関学クラブ | 5 | |||||||||||
1952年5月3日 | ||||||||||||||
大阪クラブ | 2 (aet) | 志太サッカー | 0 | |||||||||||
島原クラブ | 0 | |||||||||||||
大阪クラブ | 4 | |||||||||||||
決勝戦メンバー
全慶應[1] | 大阪クラブ[2] | |||
---|---|---|---|---|
Pos. | 選手 | Pos. | 選手 | |
GK | 津田幸男 | GK | 岸本 | |
FB | 土井田宏之 | FB | 山形 | |
FB | 北島秀夫 | FB | 木下 | |
HB | 荒川達 | HB | 笠原 | |
HB | 長竹義広 | HB | 加藤 | |
HB | 松沢駿介 | HB | 南木 | |
FW | 則武謙 | FW | 賀川浩 | |
FW | 鈴木徳衛 | FW | 賀川太郎 | |
FW | 二宮洋一 | FW | 岩谷俊夫 | |
FW | 早川(小林)忠生 | FW | 川本泰三 | |
FW | 重松良典 | FW | 和田 |
出典
参考資料
- 第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会大会パンフレット (p. 55)
外部リンク
「1952 Emperor's Cup」の例文・使い方・用例・文例
- エリザベス2世は1952年に女王になった
- 最初の水爆実験は1952年に実施された。
- 1952 年にアメリカとの講和条約の締結と抱き合わせに安保条約が発効した.
- 傑出した米国のテニス選手(1952年生まれ)
- 米国の実践的哲学者で、進歩的な教育を主張した(1859-1952)
- 彼女の父親の死に際して1952年に英国と北アイルランドの女王になったジョージ6世の娘(1926年−)
- エジプトの王で、1952年の軍のクーデターにより追放された(1920年−1965年)
- 米国の労働組合のリーダーで、1924年から1952年までのアメリカ労働総同盟の理事長であり、産業別労働組合会議との戦いを指揮した(1873年−1952年)
- ノルウェーの小説の作家(1859年−1952年)
- 米国の精神科医(1885年−1952年)
- 英国の女優(1898年−1952年)
- 米国のプロボクサーで、1952年に世界ヘビー級チャンピオンとなった(1924年−1969年)
- ハンガリー人の劇作家(1878年−1952年)
- イタリアの教育者で、知的障害児を教える方法を開発して、子供中心のアプローチを主唱した(1870年−1952年)
- 英国の生理学者で、反射運動の研究を実施した(1857年−1952年)
- ニュージーランドのランナーで、1975年に世界で初めて1マイルを3分50秒を切る速さで走った(1952年生まれ)
- イスラエルの政治家で、イスラエルの新しい国家を承認するよう米国を説得し、初代の大統領となった(1874年−1952年)
- 米国の政策で、ヨーロッパの再生のための経済援助を目的とする(1948年−1952年)
- 国連本部ビルは1952年に建てられ,古くなり始めている。
- 彼女は1952年にヘルシンキ五輪に出場した。
- 1952 Emperor's Cupのページへのリンク