1927~1930年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:41 UTC 版)
「ミュージカル映画」の記事における「1927~1930年代」の解説
ミュージカル映画は、1920年代にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期に出現した。長編映画として最初のトーキーとされるアル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』(1927) からして、音楽映画である。当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレビュー短編なども多く作られた。 しかしトーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあった。そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍した。 世界恐慌によってブロードウェイも不況に巻き込まれた1930年代前半、ダンサーとして一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、1933年の『四十二番街』を皮切りに本格的なミュージカル映画の土台が形作られることになった。 ダンサーのフレッド・アステアはRKOの女優ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、一連のヒット作でテクニカルかつロマンティックなダンスシークエンスを披露して人々の喝采を浴び、世界的な人気者となった。このアステア&ロジャースのコンビは、息のあった男女のダンサーの代名詞として現在でも使われることがある。 他にも、天才的な振付師であるバスビー・バークレイは、映画ならではの演出・特撮・カット割りを駆使し、ミュージカル映画に舞台とは違う独自の発達をもたらした。具体的には、ダンサー達をその真上からカメラで見下ろし、その隊列で万華鏡のような映像を造り出す、いわゆるバークレー・ショットの創造がある。 そんな中、映画会社のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)社は、ミュージカル映画の活況に即座に対応し、1929年に公開された『ブロードウェイ・メロディー』をシリーズ化することを明確にし、1935年に『踊るブロードウェイ』1937年に『踊る不夜城』、1940年に『踊るニュウ・ヨーク』をそれぞれ制作した。もう一方のパラマウント映画社は、『ラジオは笑う』(1933年)の続編である『1936年の大放送』(1935年)、『1937年の大放送』(1936年)、『百万弗大放送』(1937年)をそれぞれ公開した。 そうして形作られた人気を背景に、30年代末期以降のミュージカル映画はテクニカラーの導入、高品質の録音再生システムの導入など、技術革新の恩恵をいち早く受ける分野ともなった。 この黎明期をはじめ20世紀前半のミュージカル映画のストーリーは、突然歌い踊りはじめても違和感の少ない歌手やダンサー、ミュージカルスターを登場人物にして、その舞台裏や私生活を描いたものがもっぱらであり、それらは後に舞台裏ミュージカルと呼ばれる伝統的ジャンルとなる。
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