1715年以降のジャコバイトの動向
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「1745年ジャコバイト蜂起」の記事における「1715年以降のジャコバイトの動向」の解説
詳細は「ジャコバイト」を参照 亡命ステュアート家の支持者(ジャコバイト)は1745年時点でもイギリスとアイルランドの政治に影響力を有したが、それぞれの目的は違い、お互いに矛盾するところもあった。目的の違いは1745年の蜂起において、特にスコットランド人とアイルランド人の間で明らかであり、イングランド人からの支持を計るときにハノーヴァー朝への無関心をステュアート家への支持に取り違えたほどだった。 チャールズの顧問にはジョン・オサリヴァン(英語版)などの亡命アイルランド人がおり、彼らはアイルランドに自治とカトリック主導を望み、清教徒革命期のアイルランド同盟戦争(英語版)後に没収された土地の返還も望んだ。ジェームズ2世は1689年から1691年までのウィリアマイト戦争において、アイルランド人の支持と引き換えにこれらの譲歩をしたが、その約束が果たされるにはステュアート家の復位が不可欠だった。 ハノーヴァー朝における野党としてのトーリー党はイギリス貿易への保護を重要視する重商主義政策を支持した。このことは歳出をイギリス海軍の増強に向けることを意味し、大陸ヨーロッパへの派兵は費用が高く主にハノーファーを利すると考えられた。この見方はシティ・オブ・ロンドン(英語版)で特に強かったが、外交官のほうでは外国に絡むことへの反対が「イギリスの貿易が損害を被らない限り」との条件付きであると見抜いていた。 1715年の蜂起に参加したイングランド人の多くがカトリックだったものの、ステュアート家を支持するトーリー党員のイングランド人とウェールズ人は熱烈な反カトリックが多かった。1715年の蜂起では軍歴に欠けるプロテスタントのトマス・フォスター(英語版)がイングランド人ジャコバイト軍の指揮官に任命されたが、その目的は蜂起がカトリック反乱とみられることを回避するためだった。 1745年時点でもトーリー党員の多くがステュアート家を支持し続けたが、彼らにとってイングランド国教会優位の確立のほうがはるかに重要であった。そのため、彼らはイングランド国教会をチャールズ、カトリックに属する顧問たち、チャールズの軍勢の大半を構成する長老派スコットランド人、さらに国教忌避者(英語版)全般から守る必要があった。ウェールズにおいても「ジャコバイト」と示威することが18世紀のウェールズにおけるメソジスト復興運動への敵意に起因することが多かった。しかし、亡命ジャコバイトは支持者を構成する諸派の差を認識できず、トーリー党からの支持がステュアート家支持に起因するのではなく、ホイッグ党との政策上の違いに起因することも見抜けなかった。 ウェールズのジャコバイトで最も目立ったのはデンビーシャーの地主でトーリー党の庶民院議員だったサー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンであり、彼はジャコバイト組織であるサイクル・オブ・ザ・ホワイト・ローズ(Cycle of the White Rose)の指導者でもあった。彼は1740年から1744年までステュアート家の代表と数度面会して、「王子(チャールズ)がフランス軍を連れてきたら」支持を保証すると述べた。結局、ウィリアムズ=ウィンは蜂起を通してロンドンに留まり、ウェールズのジェントリで蜂起に参加したのは法律家のデイヴィッド・モーガン(David Morgan)とウィリアム・ヴォーン(William Vaughan)だけだった。 1719年の蜂起が失敗した後、スコットランドとイングランドで新しい法律が議決され、臣従宣誓を拒否する聖職者(英語版)への懲罰が定められたが、この臣従宣誓とはハノーヴァー家への宣誓であり、ステュアート家への宣誓ではなかった。臣従宣誓を拒否したイングランド人聖職者は主に寝返りが許されるかを争点としたため、時間が過ぎるとともにそれが問題となる聖職者が死去していき、問題は薄れていった。一方でスコットランドではスコットランド国教会(現スコットランド聖公会)がイングランド国教会との教義上の差により独立性を維持したため、ジャコバイト反乱軍の指導者と参加者は多くが臣従宣誓を拒否するスコットランド国教会の聖職者を牧師とする教会に所属した。しかし、全員がそうだったわけではなく、1745年の蜂起を支持したスコットランド人ジャコバイトの間で最も一貫していたのは1707年合同法への反対であり、政治上の自主を失う対価としての経済上の利益が得られていないとみられたのであった。このことは特にスコットランド議会のあったエディンバラ、そしてハイランド地方で顕著だった。 要約すると、チャールズは統一グレートブリテン王国の王位を取り戻そうとし、王権神授説と絶対主義に基づいて統治しようとした。これらの思想は1688年の名誉革命で拒否されたが、イングランドとアイルランドのカトリック亡命者が大半を構成するチャールズの顧問によって支持された。そのため、チャールズの顧問の考えは1745年の蜂起を支持したジャコバイトの大半を構成するスコットランド人プロテスタントの考え、すなわち合同法、カトリック、そして「恣意的な」統治の3点に反対するという考えと大きく異なった。
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