1594年グレイズ・イン法学院での祝宴
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「シェイクスピア別人説」の記事における「1594年グレイズ・イン法学院での祝宴」の解説
グレイズ・イン法学院(グレイ法曹院; Gray's Inn)で伝統的に催されていたクリスマス・パーティでは、舞踊や宴会の他に、余興として芝居と仮面劇を上演することになっていた。1594年から翌年にかけての冬に開催された祝祭では、上演されたアマチュア演劇の全てが記録に残されている。この記録文献『グレイズ・イン法学院録』("Gesta Grayorum")において、執筆者のデズモンド・ブランドはこれらはみな上流階級の人間が身に付けているダンスや音楽、演説、演技力といったことの訓練にするつもりであることを記している。ジェームズ・スペディングは、この記事の執筆にベーコンが関与していたと考えている。 『グレイズ・イン法学院録』は1688年に公刊された68ページのパンフレットである。この中で、1594年12月28日(幼な子の日。イエス・キリスト生誕直後のこの日にヘロデ大王の命令でベツレヘムの幼児が大量虐殺された)に「プラウトゥス(Plautus)の『メナエクムス兄弟』("Menaechmi")によく似た『間違いの喜劇』という作品が上演された」との記述があり、これが記録に残っている限りでは『間違いの喜劇』の最初の上演である(なお、実際にこの作品はほぼ同時期に英訳・上演された『メナエクムス兄弟』を種本として書かれている)。問題は、舞台に立ったのが誰であるにせよ、シェイクスピアとその劇団でなかったことだけは確実であるという証拠の存在することである。シェイクスピアの所属していた宮内大臣一座は、同じ日にグリニッジで女王のための上演を行っていたことを示す1595年3月15日付の文書が宮廷に残っている。E・K・チェンバースによれば、宮廷での上演は常に夜間開催され、午後10時頃に始まって翌日の午後1時まで続いたとのことであり、宮内大臣一座が両公演に出演することはおよそ不可能である。しかも、実行委員会による全ての出納を記録したグレイズ・イン法学院の帳簿からは、この戯曲の上演にあたって作家や劇団に報酬を支払った形跡が一切見られない。ベーコン派研究者の考えによると、これは『間違いの喜劇』がこの祝宴のための出し物として、法学院のメンバーによって執筆・上演されたものだからに他ならない。この議論に難点があるとすれば、『法学院録』の記述では出演者達のことを「本職の一座と一般の人たち」と述べていることで、これはプロの劇団を指すことはあっても法学生を指すことはないという点である。しかし、『法学院録』の陽気な語調と、「魔法使いだか手品師だか」が「ドタバタ喜劇をメチャクチャにした」と非難されていることから、「本職の一座」というのは法学院の学生劇団のことを冗談めかして表現したものだろうとベーコン派研究者は解釈している。実際法学院は祝宴の前後に劇団を設けており、1595年2月11日の出納簿にも「100マルクの支出:この懺悔季節(shrovetide、灰の水曜日前の三日間)における女王陛下の御前での運動競技会と公演への報酬として」という記録がある。この役者達がベーコンの指導下にいたという証拠がある。バーリー男爵ウィリアム・セシルに宛てた1598年以前の書簡で、ベーコンは「四法学院(グレイズ・インの他にミドル・テンプル(Middle Temple)、インナー・テンプル(Inner Temple)、リンカーンズ・イン(リンカーン法曹院; Lincoln's Inn)の四学院が存在していた)主催の仮面劇に参加できなくて残念です…(中略)…グレイズ・インからは12人が参加して仮面劇を行なう予定です」云々と書いているのである。また1613年にホワイトホールで上演された仮面劇でフランシス・ボーモントが書いた献辞でベーコンはグレイズ・インとインナー・テンプルの両法学院における上演の「主要立案者」と呼ばれている。またベーコンは1594-95年の祝祭より前に会計係を務めていたこともあった。 一方、『間違いの喜劇』を上演したのはやはり宮内大臣一座であったろうと考える研究者は、その居所に関する矛盾は宮廷の記録ミスであると解釈している。W・W・グレッグは以下のような説を提示した。「宮廷の財務官の記録によれば、宮内大臣一座は12月26日と12月28日の御前公演の報酬を受け取っている。しかしこれらの記録では、海軍大臣一座に対しても12月28日に支払いがなされている。御前公演が一夜に二度行なわれた例がないわけではないが、財務官が27日と書くべきところを28日と間違えて記載したと考えるのが妥当であろう」。
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