黒又川分水案
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当時の内閣総理大臣である吉田茂は只見川開発の早期促進を命題にしており、尖鋭化する新潟県と福島県の対立を解消するために1952年(昭和27年)に発足した電源開発と共に仲裁に乗り出し、両者の妥協点を探るべく調整を図った。この中で登場したのが黒又川第一・第二ダムを中心とした「黒又川分水案」である。これは電源開発が只見川で開発された電力を利用する東北電力・東京電力と共同で検討し策定された案であり、すなわち奥只見ダムの水を黒又川源流部にトンネルを通じて分水し、第一・第二ダムで貯水して農繁期には必要な分を放流することで灌漑用水を確保する。これにより新潟県の主張をある程度取り入れ「本流案」に基づく開発を直ちに進める考えであった。 1953年(昭和28年)6月23日、経済審議庁長官官邸において新潟県と福島県の両者より意見聴取を行うべく第3回電源開発調整審議会が開催された。政府側からは戸塚九一郎建設大臣と岡野清豪経済審議庁長官、経済界からは藤山愛一郎日本商工会議所会頭ら8人の委員が出席。福島県側からは大竹作摩福島県知事ら県幹部、そして新潟県側からは岡田県知事ら県幹部のほか新潟県選出の衆議院議員である田中角栄と稲葉修が出席、只見川上流部の電力開発を担当する電源開発からは高碕達之助総裁が出席して意見を述べた。この会合で岡田知事は政府が「本流案」へ一方的に肩入れし「分流案」を一顧だにしない姿勢を激しく非難、会合後の報道機関へのインタビューで『思う存分意見をぶちまけてやった』と不満を露にした。しかし「黒又川分水案」については一旦保留として新潟県議会などに諮ることとした。 県議会は「黒又川分水案」についても断固拒否の姿勢を求めたが、新潟県内の経済界を始め各方面から『下手に拒否すれば分水自体が潰れかねず、折角の機会を永久に逃しかねない。ここは大局的な見地で認めるべきだ』との意見が強く出るようになった。県は案について詳細な検討を行った結果思いのほか合理的で、理想に近い案であったこともあり承諾の方向に傾いていった。そして同年7月25日に岡田・大竹両知事は首相官邸に招かれて「黒又川分水案」についての最終決断を吉田首相より迫られた。この席で岡田知事は即座に「分水案」を承諾、大竹知事も福島県議会の反対を抑えて承諾するに至った。本音としては両県とも自らの案を100パーセント実施したかったが、差し迫った電力危機を回避するためには只見特定地域総合開発計画の要である奥只見・田子倉の両発電所建設は早急に進める必要にあるという意識があり、これ以上の停滞を望まなかったことが背景にあった。 新潟・福島両県が「黒又川分水案」を承諾したことで政府は直ちに計画の遂行を電源開発に要望し、8月5日には総理府告示第155号として「只見川電源開発事業」の実施が官報に掲示された。この中で奥只見・田子倉両ダムと共に黒又川分水が正式な事業として計画に加わり、根幹施設である黒又川第一ダムが着手されたのである。
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