新潟県の反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 08:50 UTC 版)
「只見特定地域総合開発計画」の記事における「新潟県の反発」の解説
「只見川分流案」を推していた新潟県は、「只見川本流案」の採用が決定した後も頑強に自らの計画案を推し、政府や福島県に猛反発した。新潟県はOCIの結論に対して「本流案を最も有利であると前提にした上で比較検討している」として公平性に欠けると批判。また本流案は電源開発のみをその中心に据え、河川総合開発事業としての見地に立っていない、分流案は水力発電のほか農地開発による食糧増産、さらに只見川・阿賀野川の治水においても有利であり、喫緊の課題である食糧増産と電力開発を同時に遂行できるとして従来の主張を繰り返した。そして技術的な面、水没地補償の面でも本流案に比べ負担が少なくて済むとも論じた。 この新潟県の反発は中央政界にも波及した。当時の与党であった自由党内部では吉田派と鳩山派が熾烈な抗争を繰り広げていたが、新潟県選出の自由党議員は内閣総理大臣であった吉田茂に対し「分流案」を認めなければ自由党を集団で離党すると揺さぶりを掛けた。一方福島県側も福島県議会議員50名が1952年8月13日に上京し、やはり政府に対して「本流案」の貫徹を強硬に陳情した。福島県は吉田派であった農林大臣・広川弘禅の力が強く、これに対抗するため新潟県は鳩山派に傾斜するといった具合であった。さらに両県の対立は、後述する水利権問題の遠因になった。 政府は妥協点を探るため度々電源開発調整審議会を開催、電源開発により奥只見・田子倉などの只見川上流開発を行う方針を固めて地域紛争を排除し、かつ新潟県が納得する妥協点を探った。こうした度重なる協議の末、佐梨川への導水を廃止する代わりに奥只見ダムから信濃川水系黒又川に只見川の水を分水し、黒又川に黒又川第一ダム・黒又川第二ダムを始め合計4箇所の水力発電所を建設。ダムに貯水した水で越後平野のかんがいを行うという「黒又川分水案」を提示し、1953年(昭和28年)7月28日、吉田首相が首相官邸に大竹福島県知事と岡田正平新潟県知事を招いて「黒又川分水」による妥協案に同意するよう求めた。これに対し大竹福島県知事は県幹部・県議会議員と協議をして緒方竹虎副総理に了解の旨を伝え、岡田新潟県知事もこれ以上の反対は却って分流案に不利になるとして即座に同意。8月5日に「黒又川分水」を含めた奥只見・田子倉発電所の着工が決定した。
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