養賢堂の拡充から廃止まで
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「養賢堂 (仙台藩)」の記事における「養賢堂の拡充から廃止まで」の解説
1780年(安永9年)になると、当時奉行職にあった芝多信憲の私財によって養賢堂の学寮と書庫が増設され、書庫には数千冊の蔵書が収められた。しかし、重村によって改革され、加えて施設が充実した養賢堂だったが、それでもなお出席者の数は悪かった。17世紀後半には林子平が3度に渡って養賢堂の学制改革の建言に及んだが、藩はこれを採用しなかった。子平は、養賢堂とは名ばかりであると批判していた。この後18世紀に入ると、学頭御用となった大槻平泉が藩主の命を受けて学制改革に乗り出した。 平泉の改革で、まず1811年(文化8年)に新田開発高1万2000石の学田が造られ、この収入が養賢堂の運営費となった。その後、養賢堂周辺の敷地が召し上げられ養賢堂の敷地となり、講堂などの施設が拡充していった。講堂は1816年(文化13年)から建設され1817年(文化14年)に完成した。同じく1817年(文化14年)には医学校独自の学舎が完成した。施設の整備はこの後も続けて行われ、学頭の居宅や学校役人の詰め所、馬場や文庫、米蔵、剣槍術所、孔子をまつる霊廟などが造られた。 学頭御用として就任した平泉はまもなく正式に学頭となった。平泉が学頭を務めていた頃の養賢堂では、学科の増設が何度か行われた。1811年(文化8年)に書学、算法、礼方の3学科が増設された。当時、算術は町人や百姓が用いる卑しい技と見なされており、この算法学科の設置は珍しい例であるとされる。翌1812年(文化9年)には兵学、槍術、剣術の学科が加わった。平泉の次の学頭、大槻習斎の時代になると、養賢堂は漢学、国学、書学、算法、礼方、兵学、蘭学、洋学、剣術、槍術、柔術、楽の12学科を持つに至った。 養賢堂の規則では、文武両道が学習の基本方針とされていたが、学生の希望によっては一科専修も認められていた。入学は8歳以上が対象だった。素読試験には17歳までに合格せねばならないとされ、3回の不合格で退校する決まりがあった。幕末の頃には、通学生と寄宿生あわせて1日約1000人が養賢堂で学んでいたという。 戊辰戦争の際には、養賢堂は政府軍の宿舎となった。そのため、教育機関としての機能は北一番丁に移った。1869年(明治2年)に養賢堂は元の場所へ戻り、知学局と改称したが、さらに後に名称が養賢堂へと再び戻った。廃藩置県によって仙台県が成立すると、養賢堂の建物は仙台県庁舎(後に宮城県庁舎)となり、教育機関としての養賢堂はその中の習字所を仮学校とした。1872年(明治5年)に学制が制定されると教育機関としての養賢堂は廃止され、仙台には2校の官立中学校が設置された。養賢堂の建物はその後も残っていたが、第二次世界大戦中の仙台空襲の際に焼失した。 養賢堂は豊富な蔵書を備えていた。1835年(天保6年)時の調査によると、この時の養賢堂には1万7183冊の書物があった。明治維新の戦乱の中で、これらの書物の多くは失われたが、残ったものは宮城書籍館に寄贈された。第二次大戦中には愛子と芋沢の農家へ書籍の疎開が決定し、特に貴重とされた和算書などが選定されていた。しかし、選定された書籍の9割は、仙台空襲まで搬出に間に合わず、助かったのは約1800冊にとどまった。残った本は終戦後は宮城書籍館の後進である宮城県図書館に「養賢堂文庫」として所蔵されている。
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