養賢堂学頭とは? わかりやすく解説

養賢堂学頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)

大槻磐渓」の記事における「養賢堂学頭」の解説

1862年9月、磐渓は仙台への帰還命じられている。これには、藩の情報通として藩主重宝されている磐渓を暗殺され佐久間象山二の舞にはさせたくないという意図があった。翌10月林学斎による幕府への推挙辞退して帰国の途に着いた幕末仙台藩においては討幕派の桜田良佐遠藤文七郎・中嶋虎之助らと、佐幕派但木土佐坂英力玉虫左太夫・そして大槻磐渓らとの激し抗争展開された。1863年将軍徳川家茂上洛すると、仙台藩朝廷からの藩単独の上洛令と、幕府からの将軍随従する形での上洛令との、矛盾する2つの命を受けた。いずれをとるかで両派の間で激し論争起きたが、藩主伊達慶邦は、佐幕派意見受け入れて将軍随伴して上洛した。磐渓もこれに随行し攘夷論沸騰する京都において捨て身覚悟開国論主張するつもりであった。しかし、彼の身の安全を心配した但木土佐はからいにより、別命を受け待機することになる。 その後藩校養賢堂学頭添役(副学頭)として教鞭をとった。1865年10月、前学頭大槻習斎の死を受け養賢堂学頭にも就任し、その発言仙台藩執政に対して大きな影響力持った実際に戊辰戦争期での東北地方における諸戦争指導した仙台藩但木土佐玉虫左太夫などは磐渓の教え子に当たる。ところが、養賢堂改革案などが部下反対にあうなど、経理運営上手くいかず、神経衰弱に陥ってしまう。1866年には病気理由学頭辞して隠居するが、1867年2月藩主伊達慶邦の「学問相手近習格」に任ぜられ、再び出仕する3月には林学斎から再び幕府への推挙があったが、またも辞退している。

※この「養賢堂学頭」の解説は、「大槻磐渓」の解説の一部です。
「養賢堂学頭」を含む「大槻磐渓」の記事については、「大槻磐渓」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「養賢堂学頭」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「養賢堂学頭」の関連用語

養賢堂学頭のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



養賢堂学頭のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大槻磐渓 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS