養賢堂学頭
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1862年9月、磐渓は仙台への帰還を命じられている。これには、藩の情報通として藩主に重宝されている磐渓を暗殺された佐久間象山の二の舞にはさせたくないという意図があった。翌10月、林学斎による幕府への推挙も辞退して帰国の途に着いた。 幕末の仙台藩においては、討幕派の桜田良佐・遠藤文七郎・中嶋虎之助らと、佐幕派の但木土佐・坂英力・玉虫左太夫・そして大槻磐渓らとの激しい抗争が展開された。1863年、将軍徳川家茂が上洛すると、仙台藩は朝廷からの藩単独での上洛令と、幕府からの将軍に随従する形での上洛令との、矛盾する2つの命を受けた。いずれをとるかで両派の間で激しい論争が起きたが、藩主伊達慶邦は、佐幕派の意見を受け入れて将軍に随伴して上洛した。磐渓もこれに随行し、攘夷論が沸騰する京都において捨て身の覚悟で開国論を主張するつもりであった。しかし、彼の身の安全を心配した但木土佐のはからいにより、別命を受け待機することになる。 その後藩校の養賢堂で学頭添役(副学頭)として教鞭をとった。1865年10月、前学頭・大槻習斎の死を受け養賢堂の学頭にも就任し、その発言は仙台藩の執政に対しても大きな影響力を持った。実際に、戊辰戦争期での東北地方における諸戦争を指導した仙台藩の但木土佐、玉虫左太夫などは磐渓の教え子に当たる。ところが、養賢堂の改革案などが部下の反対にあうなど、経理運営は上手くいかず、神経衰弱に陥ってしまう。1866年には病気を理由に学頭を辞して隠居するが、1867年2月に藩主伊達慶邦の「学問相手近習格」に任ぜられ、再び出仕する。3月には林学斎から再び幕府への推挙があったが、またも辞退している。
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