随筆家・探偵小説家として
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「小酒井不木」の記事における「随筆家・探偵小説家として」の解説
不木は医学研究の傍らで、随筆の執筆や海外探偵小説の翻訳などを行って探偵小説の普及に貢献した。31歳だった1915年(大正4年)12月には『学者気質』を刊行。1922年(大正11年)に東北帝国大学を退職。静養に努める。『毒及毒殺の研究』を連載。1923年(大正12年)の関東大震災後の10月、親子三人で愛知県名古屋市中区御器所町に新築転居。文筆に専念。『殺人論』『西洋犯罪探偵譚』の執筆、スウェーデンの大衆小説作家サミュエル・オーギュスト・ドゥーゼの『夜の冒険』を翻訳連載。『犯罪と探偵』を刊行。 1924年(大正13年)12月、『子供の科学』で少年探偵小説『紅色ダイヤ』連載開始。『西洋医談』『科学探偵』『殺人論』を刊行。1925年(大正14年)には創作活動を始め、『呪はれの家』のほか『画家の罪?』『按摩』『虚実の証拠』『遺伝』『手術』などを発表、『犯罪文学研究』を連載。10月より結成された大衆文芸作家の同人「二十一日会」に参加。『三面座談』『近代犯罪研究』『趣味の探偵談』を刊行。1926年(大正15年)、『人工心臓』『恋愛曲線』『メデューサの首』などを発表。『闘病術』『少年科学探偵』『犯罪文学研究』を刊行。長女生まれる。1927年(昭和2年)、『疑問の黒枠』を連載。1928年(昭和3年)1月、自宅隣地に研究室を建て、血清学の研究を始める。『恋魔怪曲』『好色破邪顕正』を連載。1929年(昭和4年)4月1日未明、39歳(数え年40歳)で急性肺炎のため死去。不木の死はラジオや新聞で大々的に報じられ、4月4日の葬儀には多数の参会者が詰めかけた。 同年5月に『闘争』が発表され、翌年10月にかけて『小酒井不木全集』(全17巻)が改造社から出版された。
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