階級に関する文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 02:05 UTC 版)
技術が未熟な時代は紫の染料を出すのは莫大なお金がかかることから、古今東西関係なく、紫は高貴な色として共通の文化であった。 日本 日本では推古天皇16年(608年)に隋使裴世清を朝庭に迎えたとき、皇子・諸王・諸臣の衣服が「錦・紫・繍・織と五色の綾羅」であった、とするのが紫の初見である。これより先、推古天皇11年(604年)制定の冠位十二階の最上位(大徳・小徳)の冠が紫だったとする学説があるが、史料には記されず、確証はない。皇極天皇2年(643年)に蘇我蝦夷が私的に紫冠を子の入鹿に授けたことから、大臣の冠が紫であったことが知られる。大化3年(647年)の七色十三階冠以降の服色規定では、紫を深紫(または黒紫)と浅紫(または赤紫)の2色に分け、深紫(黒紫)をより高貴な色とした。道教が正式に受容されなかった日本では、高徳の僧侶に対して紫衣が許された(紫衣事件を参照)。 中国 古代中国の五行思想では正色(青、赤、黄、白、黒)を最上とし、中間色である紫はそれより下位の五間色に位置づけた。『論語』にある儒教の開祖孔子の言葉に「紫の朱を奪うを悪(にく)む」というものがある。 紫を尊んだのは道教で、天にあって天帝の住まうところを紫宮・紫微垣などと呼んだ。南北朝時代に紫の地位は上昇し、五色の上に立つ高貴な色とされた。隋は大業元年(605年)に服色に身分差を設けたとき、五品以上の高官に朱か紫の服を着せ、6年(610年)には五品以上を紫だけにした。高官だけでなく、道教の道士、仏教の僧侶の中の高徳者にも紫衣を許し、これが唐代にも継承された。 ローマ 紀元前1600年から使用された染料貝紫色(英名:ロイヤルパープル)は、ローマ帝国などでは特権階級にふさわしい色とされた。 東ローマ帝国 「皇帝の子であること」を示す「ポルフュロゲネトス(英語版、ギリシア語版)」 (希: Πορφυρογέννητος)「紫の生れの者」の意)の紫も、当時希少で高価であった貝紫色から来ている。これはコンスタンティノープル大宮殿にあった「ポルフュラ(Πορφύρα, Porphyra)」という緋紫色の壁に覆われた皇后専用の産室に由来している。この産室で生まれた者だけが「ポルフュロゲネトス」の称号を付けて呼ばれ(皇帝の嫡出子であることを意味する)、この称号を持つ皇子・皇女は特別扱いされた。この語は6世紀から使われていたとされるが、846年まで言葉が使用された例は見つかっていないのは確かである。 この語は英語の慣用句、"born in the purple"(王家(帝室)の生まれ)の語源ともなっている。
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