陸奥鉄道の開業
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陸奥鉄道の計画は1913年(大正2年)鉄道院技師の佐山政義が敷設予定線の測量の為青森を訪れた際、五所川原町を中心とした鉄道事業は採算がとれることに注目し、鉄道院退官後再度青森を訪れ地元有力者を集めて鉄道敷設の必要性を説明したことが始まりである。1915年(大正4年)4月に南津軽郡光田寺村-西津軽郡舞戸村間、南津軽郡藤崎村-中津軽郡和徳村間、北津軽郡五所川原町-北津軽郡金木村間の鉄道免許状が下付された、佐山は第1期工事は川部より藤崎、板柳、鶴田をへて五所川原まで第2期工事は五所川原-より木造、鰍沢まで第3期工事は五所川原-金木と藤崎-弘前と計画し総工費150万円と見積った。しかし頓挫した津軽鉄道に参画していた佐々木嘉太郎が採算を重視することを主張したため鉄道敷設区間を川部-五所川原間に変更し1916年(大正5年)3月に起業目論見変更認可された。資本金が60万円になることから中央資本の投資を拒否して地元資本で1916年(大正5年)4月に陸奥鉄道株式会社が設立された。役員は津軽地方の名士たちが名を連ね社長に佐々木嘉太郎(北津軽郡五所川原町)、取締役には津島源右衛門(北津軽郡金木村)、平山為之助(北津軽郡栄村)、平山浪三郎(北津軽郡五所川原町)、菊池九郎(弘前)、安田才助(北津軽郡板柳村)、佐藤勝三郎(南津軽郡藤崎村)など、ほかには東京の佐山政義、佐山と同じく元鉄道院米子建設事務所長の三宅次郎がいた。株式の申込は順調で1000株以上の大株主は佐々木嘉太郎、佐藤勝三郎、平山浪三郎、菊池九郎、安田才助であった。 1917年(大正6年)2月に着工となり、三宅次郎が技術主任を、佐山政義が補佐をして弘前の堀井組の請負により工事がされた。平坦な平野部でトンネルがなく工事は容易と思われたが工事は遅れがちであった。それは堀井組は建築が主で土木は専門外であったこともあるが、用水路の付替が多くまた橋梁工事が大小120箇所に及ぶなど工事を困難にした。さらに第一次世界大戦の影響で物価が高騰したため第五十九銀行、佐々木銀行より借り入れることになった。 ようやく1918年(大正7年)7月20日に竣工し、9月25日に川部 - 五所川原間が開業して貨物旅客とも順調に推移してきた。1921年(大正10年)に会社は貨物輸送奨励のため輸送業者に対し交付金制度を設けた。ところが同年に鉄道省所有の貨車が配車されない事態が発生し滞貨がおきた。これは奥羽線でも輸送量が増えていたため陸奥鉄道に配車する余裕がなくなったためであった。年々増加する貨物及び旅客量に対し車両を増備したものの一企業では賄えない状況になっていたので国有化の要望も出てくるようになっていたが、関東大震災の影響のため中断を余儀なくされた。
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