陸奥黒川氏とは? わかりやすく解説

陸奥黒川氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 10:00 UTC 版)

黒川氏」の記事における「陸奥黒川氏」の解説

斯波一門大崎氏分家最上氏一族で、陸奥国黒川郡国人領主家紋足利氏と同じ「二つ引両」および「五三の桐」。 黒川氏初代・氏直の出自については、以下の三説がある。 最上氏初代・兼頼(1315年-1379年の子没年月日不詳。(「報恩寺旧蔵黒川氏系図」) 最上氏第2代・直家の子応永26年1419年6月28日死去。子に満氏。(『寛政重修諸家譜』巻80所収最上氏系譜」) 最上氏第3代・満の子文明3年1471年6月18日死去。(「水沢大衡系図」) 「最上氏系譜」と「水沢大衡系図」とでは、氏直の没年半世紀近い差があり、また黒川氏歴代位牌には氏直の物が無い代わりに文明4年1472年8月15日死去の景氏(6代景氏とは別人。「最上氏系譜」に見える満氏か)の物が存在するなど、かなりの混乱見られる斯波氏庶流筋であることから、長禄年間には将軍より直接古河公方足利成氏討伐命じ御内書下されるなど、大崎氏麾下国人領主として重きをなした。16世紀初期伊達稙宗勢力伸張すると、伊達氏庶流飯坂家から景氏が養子として入り伊達氏服属したものの、景氏の子・稙国以降、稙家・晴氏(月舟斎)と三代わたって将軍より偏諱を賜っている。晴氏は伊達晴宗三男留守政景に娘を嫁がせる一方で大崎義直の子・義康を養子迎えるなど、大崎氏伊達氏双方配慮を欠かさなかった。 しかし伊達政宗の代に伊達一門と斯波一門対立深刻化すると、晴氏は大崎合戦において伊達氏より離反し中新田城を攻めていた伊達軍潰走させた。またこの時、婿の政景を救うために和睦斡旋したその2年後、黒川氏豊臣秀吉による小田原征伐への参陣命令無視したために、奥州仕置において改易され、旧黒川領は政宗支配下帰することとなった政宗旧年報復のために晴氏を殺そうとしたが、政景の嘆願もあって助命され、晴氏は政景の保護下にて余生過ごした。 晴氏の後継・義康はのちに政宗仕え一家家格列して宮城郡西田中(現:仙台市泉区西田中)で150石を知行したが、寛永3年1626年)に義康の子・季氏が死去して無嗣断絶となった

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