陸家の長に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:37 UTC 版)
本貫は揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)。陸氏は呉の四姓と呼ばれる有力豪族であり、陸遜はその傍系として生まれた。 父の陸駿は徳と誠心を持った人物として慕われたが、九江郡の都尉にまでなった時に亡くなった。陸遜はまだ幼かったため、本家筋の陸康(陸遜の従祖父)を頼り、廬江の治所舒県に住んだ。 陸康は後漢王朝の廬江太守であった。揚州を袁術が牛耳るようになると、当初は末子の陸績を寿春に赴かせるなど友好的な関係であったが、194年(興平元年)兵糧問題により袁術と対立し、その部将である孫策の攻撃を受けるようになった。陸康はまだ幼かった末子の陸績を陸遜に委ね、本籍である呉県に避難させた。陸遜は家督である叔父の陸績より数歳年長であったため、後見人として家政を握った。 若い時、同県出身の陸績と顧邵の名声には及ばなかったが、張敦や卜静と肩を並べ名声を等しくした。 建安8年(203年)、21歳のとき、孫策の弟の孫権が幕府を開いた時に初めて仕えた。なお、陸績は孫策の代ですでに仕えた。最初に、文官として仕事に就いた。孫権の幕府の東曹と西曹の令史(秘書官)を務めた後、海昌県(後の塩官県)の屯田都尉となり、海昌の統治も同時に行った。旱魃となったため民は困窮したが、陸遜は施しを行って民の窮地を救う一方で、農業と養桑を推奨し、民の生活を支えた。号は「神君」。
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