阿部家時代とは? わかりやすく解説

阿部家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:05 UTC 版)

忍藩」の記事における「阿部家時代」の解説

代わって信綱と同じく徳川家光のもとで小姓から老中にまで栄進した阿部忠秋5万石で入る。信綱・忠秋が相次いで老中就任した結果忍藩は「老中の藩」として政治的軍事的に幕府の重要拠点見なされるようになったが、これが逆に藩主家経費増加にもつながり次第忍藩年貢重くなっていったと言われている。忠秋は正保4年1647年)に1万石、寛文3年1663年)に2万石を加増され、合計8万石領する大名となったその後阿部家正能(9万石)、正武(10万石)、正喬というように、歴代藩主老中就任している。特に正武は徳川綱吉の厚い信任得て23年間も老中務めて10万石に加増され、忍城修築家臣団規律制定など、藩政固めに尽力している。正喬ののちは正允、正敏、正識、正由と継がれたが、これらの藩主老中京都所司代大坂城代などの要職歴任した。 しかし藩政においては寛保2年1742年)に領内襲った大洪水天明3年1783年)の浅間山噴火天明の大飢饉その3年後の大洪水などで大被害遭う加えて歴代藩主幕府要職就いたため出費重なって、藩財政大きく逼迫した。このような中で宝暦2年1752年)と明和元年1764年)に藩内で一揆が起こるなど、藩政不安定化一途たどった文政6年1823年)、正(正由の子)のとき、阿部家陸奥国白河藩移封となった

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阿部家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 19:29 UTC 版)

佐貫藩」の記事における「阿部家時代」の解説

宝永7年1710年5月23日三河国刈谷藩から阿部正鎮1万6000石で入り、再び佐貫藩立藩する。寛政8年1796年)に藩校誠道館を設立天保13年1842年)に領内天羽郡大坪山(現在の東京湾観音付近)に砲台築いて江戸湾警備あたった8代・約150年続いた阿部家時代については比較史料残されており、天羽・望陀・市原の3郡に分散されていたことや、天保14年1843年作成分限帳には年寄家老)以下藩士総数213であったこと、財政難のために役職増加して人員増やせずに重臣級でも複数役職兼ねたなど、当時譜代藩の厳しい状況知られている。また、江戸城雁之間詰譜代大名として多く幕府将軍家関係の儀式参加しており、その際記録多く現存している(国立史料館所蔵阿部家文書」)。 最後藩主となった阿部正恒は、慶応4年1868年)の戊辰戦争幕府側に与したことから罪を問われ謹慎処分となったが、同年10月許された。翌年版籍奉還知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県佐貫藩廃藩となったその後佐貫県となった同年11月廃され木更津県となり、後に千葉県編入された。

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