阿部家時代
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代わって信綱と同じく徳川家光のもとで小姓から老中にまで栄進した阿部忠秋が5万石で入る。信綱・忠秋が相次いで老中に就任した結果、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点と見なされるようになったが、これが逆に藩主家の経費増加にもつながり、次第に忍藩の年貢は重くなっていったと言われている。忠秋は正保4年(1647年)に1万石、寛文3年(1663年)に2万石を加増され、合計8万石を領する大名となった。 その後も阿部家は正能(9万石)、正武(10万石)、正喬というように、歴代藩主が老中に就任している。特に正武は徳川綱吉の厚い信任を得て23年間も老中を務めて10万石に加増され、忍城の修築や家臣団の規律制定など、藩政の固めに尽力している。正喬ののちは正允、正敏、正識、正由と継がれたが、これらの藩主も老中・京都所司代・大坂城代などの要職を歴任した。 しかし藩政においては、寛保2年(1742年)に領内を襲った大洪水や天明3年(1783年)の浅間山噴火と天明の大飢饉、その3年後の大洪水などで大被害に遭う。加えて、歴代藩主が幕府の要職に就いたため出費が重なって、藩財政は大きく逼迫した。このような中で宝暦2年(1752年)と明和元年(1764年)に藩内で一揆が起こるなど、藩政は不安定化の一途をたどった。文政6年(1823年)、正権(正由の子)のとき、阿部家は陸奥国白河藩へ移封となった。
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阿部家時代
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宝永7年(1710年)5月23日、三河国刈谷藩から阿部正鎮が1万6000石で入り、再び佐貫藩が立藩する。寛政8年(1796年)に藩校誠道館を設立、天保13年(1842年)に領内の天羽郡大坪山(現在の東京湾観音付近)に砲台を築いて江戸湾警備にあたった。 8代・約150年続いた阿部家時代については比較的史料が残されており、天羽・望陀・市原の3郡に分散されていたことや、天保14年(1843年)作成の分限帳には年寄(家老)以下藩士総数が213名であったこと、財政難のために役職が増加しても人員が増やせずに重臣級でも複数の役職を兼ねたなど、当時の譜代藩の厳しい状況が知られている。また、江戸城雁之間詰譜代大名として多くの幕府・将軍家関係の儀式に参加しており、その際の記録が多く現存している(国立史料館所蔵「阿部家文書」)。 最後の藩主となった阿部正恒は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で幕府側に与したことから罪を問われて謹慎処分となったが、同年10月に許された。翌年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で佐貫藩は廃藩となった。その後、佐貫県となったが同年11月に廃されて木更津県となり、後に千葉県に編入された。
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