阿波鉄道 - 安田保善社による経営
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「阿波電気軌道」の記事における「阿波鉄道 - 安田保善社による経営」の解説
このころの阿波電気軌道は、鉄道財団抵当借入金約40万円、支払手形約50万円という多額の負債をかかえていた。一方融資をしていた関西銀行(旧関西貯蓄銀行)は経営危機により安田保善社が救済中であって、この鉄道の経営にもかかわるようになる。1925年(大正14年)8月の株主総会において優先株913,000円の増資をおうこなうこととし経営陣を一新、安田より関西銀行に派遣されていた池田真秸が社長、ほかに3名が役員となった。11月に池田は四国銀行(頭取安田善兵衛)常務取締役に就任したので社長兼任のまま高知に移り代わりに吉原政智が支配人として派遣された。1926年(大正15年)5月に阿波鉄道に社名変更した。 1925年(大正14年)12月から列車運行は大きく減便された。中原 - 古川間を1日2往復へ、上板線も鍛冶屋原まで9往復から6往復へ、撫養 - 中原間及び連絡船も16往復から11往復に削減した。これにより石炭消費量は以前より1/2以下の1日当たり1700斤に節減することができた。一方県から木製橋脚の腐朽、レールの亀裂、橋台の沈下など7つの改善命令が出されていたため、鉄製橋へ架け替え、レールの交換さらに車両も修繕した。そして工事が中止となっていた撫養から岡崎港までの工事を再開することとした。しかし、岡崎港まで用地買収難のため建設できず、1928年(昭和3年)1月18日 まで0.97km延長し撫養駅(2代。現在の鳴門駅)を設置。初代撫養駅はゑびす前駅と改称した。そして撫養駅より岡崎桟橋までの乗合自動車線(岡崎線)の運行開始と中原-古川間を定期運行にし、古川駅より完成したばかりの古川橋を渡り徳島駅前を経由して新町橋に至る乗合自動車線(古川線)の運行を開始した。これは撫養町より岡崎、徳島駅前までの路線を運行していた撫養自動車に対抗するためであった。これより撫養川を発着する船舶との連絡が便利となり利用客は増加した。夏期には新町橋から津田、沖洲海水浴場まで2隻の巡航船で旅客を輸送しさらに2隻を借りて運行するなど好評を博した。 ところが1929年(昭和4年)に下板自動車が徳島-加賀須野(川内村)の乗合自動車路線を開業させその後大津村まで延長したため、旅客争奪戦はいっそう激しくなり運賃値下げ競争もおこなわれた。そのうえ不況の中であり阿波鉄道の経営は悪化していった。1929年には工事を中断し、竣功期限延期申請をしていた徳島市出来島町-加茂村間、撫養-阿波岡崎間、松島村-市場町間が敷設免許を取り消された。1930年(昭和5年)6月徳島市営バスに古川-徳島駅間のバス路線(古川線)を譲り、しばらくして岡崎線も廃止した。そして赤字を補填していた政府補助金も1933年(昭和8年)2月に10年間の満期を迎えることになった。
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