関門六市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 00:10 UTC 版)
当地における市制施行は、1889年(明治22年)の山口県赤間関市(1902年(明治35年)に下関市に改称)を皮切りにして、35年後の1924年(大正13年)の福岡県戸畑市で6市に及んだ。それから1963年(昭和38年)に福岡県内5市による合併で北九州市が誕生するまでの約40年間、関門海峡周辺に6市が集中立地していた。いつからかは不明だが、それらをまとめて「関門六市」と呼ぶ慣例があった。1943年(昭和18年)10月の企画院の自動車国道計画でも「関門六市」と記されており、少なくとも戦中までには、当地のみならず中央でも使用されていた用語であったと考えられる。なお、6市が揃う以前の5市や4市などの段階で当地をまとめて言う言い方があったのかは不明。 「関門六市」の国勢調査人口の推移を見ると、日清戦争後の1901年(明治34年)の官営八幡製鉄所の操業開始に伴って人口増をみた八幡市を筆頭に、門司市および下関市が続いていたが、小倉市も人口が急増し、1933年(昭和8年)の小倉陸軍造兵廠開設後に「関門六市」の中で3位の人口になった。第二次世界大戦末期には八幡空襲、小倉空襲、下関空襲等により焼け野原となった当地の人口は減少したが、戦後には回復傾向を見せ、八幡市、小倉市、下関市に人口が集中した。 なお、現状では旧小倉市に人口が集中している(推計人口の統計年月日は、山口県が2022年6月1日、福岡県が2022年6月1日)。 関門六市(概ね該当するかつての令制国・郡・藩も付記)県令制国郡藩構成市市制施行日平成の大合併以降の状況行政推計人口山口県 長門国 豊浦郡 長州藩 赤間関市(下関市) 1889年(明治22年)4月1日 35201-2(新制)下関市(の一部) 249,018人 福岡県 豊前国 企救郡 小倉藩 門司市 1899年(明治32年)4月1日 40100-5 北九州市 40101-3門司区 091,465人 小倉市 1900年(明治33年)4月1日 40106-4小倉北区・40107-2小倉南区 388,664人 筑前国 遠賀郡 福岡藩 若松市 1914年(大正3年)4月1日 40103-0若松区 079,124人 八幡市 1917年(大正6年)3月1日 40108-1八幡東区・40109-9八幡西区 310,348人 戸畑市 1924年(大正13年)9月1日 40105-6戸畑区 056,578人 関門六市の国勢調査人口の推移 八幡市 小倉市 下関市 門司市 戸畑市(戸畑町) 若松市 ちなみに、#定義の中でこれまで含まれた例がある市の市制施行は、1921年(大正10年)11月1日の宇部市、1929年(昭和4年)4月20日の中津市、1931年(昭和6年)1月1日の直方市、1932年(昭和7年)1月20日の飯塚市、1940年(昭和15年)11月3日の小野田市、1943年(昭和18年)11月3日の田川市がある。これらが「関門都市圏」の範囲に含まれるとみられるようになった文献的初出については不明。
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