関門橋、新幹線の開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
高速道路の九州自動車道と中国自動車道を結ぶ計画は、1962年(昭和37年)から検討されていたが、1968年(昭和43年)に日本道路公団によって着工され、1973年(昭和48年)11月に関門橋が開通した。鉄道、国道トンネルに続き、関門橋の開通により、門司港地区は完全に通過点となったとされる。 もっとも、貨物に関しては、関門橋の開通により門司への集積が進んだ。朝鮮戦争以来、1972年(昭和47年)に全面解除されるまでの間、アメリカ軍による西海岸の埠頭施設の接収が長期化したこともあり、田野浦の港湾整備が進められていたが、北九州市は、1971年(昭和46年)に田野浦コンテナターミナルを開設し、さらに、太刀浦コンテナターミナルを造成し(1979年(昭和54年)供用開始)、田野浦・太刀浦一帯を臨海工業地とした。中国、韓国、東南アジアとの間で、自動車部品、工業製品、雑貨などのコンテナの取扱量が急増した。 1975年(昭和50年)、山陽新幹線新下関・小倉間の新関門トンネルが開通して東京・博多間の新幹線全線が開業した。新幹線は門司で止まらない上、在来線でも、関門をまたぐ寝台特急が激減し、小倉、博多を中心にダイヤグラムが組まれるようになって、それまで電気機関車の入れ替え駅として活躍していた門司駅の繁栄が失われる転機となった。小倉、黒崎、さらに新幹線の終着点である福岡市が発展する一方、門司は経済成長から取り残された。他方、経済的な発展から取り残されたがゆえに、歴史的な町並みが残され、後のレトロ事業につながった側面もある。 モータリゼーションの進行に伴い、交通渋滞が深刻化したため、1985年(昭和60年)10月、門司・砂津間の路面電車が廃止となり、他の西鉄北九州線の路線も順次廃線となった。企業は小倉や博多に九州支店を移すところが増え、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後、JR九州は本社中枢機能を福岡市に移転し、門司港経済への影響が大きかった。
※この「関門橋、新幹線の開通」の解説は、「門司の歴史」の解説の一部です。
「関門橋、新幹線の開通」を含む「門司の歴史」の記事については、「門司の歴史」の概要を参照ください。
- 関門橋、新幹線の開通のページへのリンク