関西土曜戦争
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1958年9月から大阪テレビ放送→朝日放送(現:朝日放送テレビ)が製作し、土曜の夜に関西地区で絶大な人気を誇ったローカル刑事ドラマ『部長刑事』を巡る争いである。 『部長刑事』は大阪府警察本部が「応援」という形で番組に協力していたこともあり、関西地区における土曜夜の顔的な番組であった。そのため読売テレビや関西テレビなど他局は対抗する手段がなく、裏番組は軒並み打ち切りになっていた。 1970年、毎日放送の斎藤守慶(営業局長)が、打倒『部長刑事』を旗印に、東映に「新しい仮面のヒーロー番組を製作したい」という企画を依頼した。そこでできた作品が『仮面ライダー』である(番組のスタートは翌1971年4月)。斉藤の目論見は成功し、『仮面ライダー』は、関東地区では第1話の視聴率は8パーセント台と低迷したものの、関西地区では20パーセント超えの視聴率をマークした。やがて、放送開始から3ヶ月後には、撮影中の事故により負傷した仮面ライダー1号こと本郷猛を演じた主演の藤岡弘に代わって、仮面ライダー2号こと一文字隼人、FBI捜査官・滝和也、ライダーガールズの新たなレギュラー入りや、変身ポーズの導入、藤岡復帰後の1号、2号のダブルライダーの共演など、それまでの暗く重苦しい作風から、明るく華やかな作風への路線変更が功を奏し、人気番組へと成長。第二次怪獣ブーム(変身ブーム)の到来とともに、子供を中心とした社会現象にまでなった。『仮面ライダー』が特撮児童向けドラマとして製作されたこともあり、『部長刑事』の視聴者層とほぼ被らなかったため、それ自体が1973年2月まで続くロングラン放送(全98話)となり、以降も『仮面ライダーV3』、『仮面ライダーX』、『仮面ライダーアマゾン』とシリーズ化され、『部長刑事』と視聴率を争う事となる。なお、昭和第一次仮面ライダーシリーズ最終作である『仮面ライダーストロンガー』は、後述の毎日放送と朝日放送との間のネットチェンジにより、1975年4月の放送開始から放送時間が土曜の19時に変更された。これにより、約4年続いた『仮面ライダーシリーズ』と『部長刑事』との視聴率争いは終結した。 詳細は「仮面ライダー#藤岡弘の負傷とその影響」を参照 1975年4月、毎日放送と朝日放送との間でのネットチェンジがあったが、ネットチェンジ後も毎日放送は『部長刑事』への対抗として、関西地区では朝日放送時代には火曜夜に遅れネットで放送されていた『お笑い頭の体操』を同時ネットに移行し、以後も『クイズダービー』や『クイズテレビずき!』、『チャレンジ大魔王』などを放送。しかし『部長刑事』もこれに対抗して、所々でテコ入れを行い、毎回10パーセント前後の安定した視聴率を挙げていたが、『新・部長刑事 アーバンポリス24』からは、マンネリ化もあり、視聴率で苦戦し始めた。『部長刑事』は「外伝」を始めた2001年、ついに放送時間を土曜18時30分に移動した。 「部長刑事シリーズ」は、2002年3月まで放送開始から43年7か月の間、関西地区を中心に放送されたが、関東地区・名古屋地区をはじめとした他のネット局では別時間帯で放送された。異なる系列局で放送されたり、放送されなかった回が存在した他、不祥事の間接的な原因になるなどした。また穴埋めとして短期間放送した局もあった。これは、番組販売の形式で他の放送局にネットされていたことによるものであった。ただし、基本的に一話完結形式のため、大きな混乱とはならなかった。 詳細は「部長刑事#放送に伴う影響」および「ネットチェンジ#ネットチェンジ後の編成」を参照
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