鐘紡時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:58 UTC 版)
「武藤山治 (実業家)」の記事における「鐘紡時代」の解説
1894年(明治27年)に三井銀行の命により、鐘淵紡績兵庫分工場支配人に就任。前身の「東京綿商社」の業績悪化を改善するために、農商務省の技師・谷口直貞を顧問技師に雇い、取締役・奥田小三郎と共にイギリスに派遣して設備の購入にあたらせた。武藤は対中国輸出を推進し、日清戦争期による急速な膨張と発展を担うことになる。「紡績連合会」は戦後に綿花輸入税撤廃を政府に働きかけるなど、紡績業は飛躍的に発展しようとしていた。北清事変後の不況期においても殿様経営をせずに、質素倹約をモットーとする大阪商人の精神を学ぶ。職工優遇を最善の投資と考え、「温情主義」を実践。『紡績大合同論』を主張して、1899年(明治32年)に中国の上海紡績を傘下に収めたのに次いで、国内の紡績業界会社を次々に吸収合併。鐘紡は、一躍国内トップクラスの企業へと進化していった。 更に1904年(明治37年)には兵庫工場に綿布の試験工場を設け、福原八郎を主任として各種織機の比較研究を行う。この研究所の中には豊田佐吉が出入りし、日本最初の力織機に改良を加えて豊田の自動織機を据え付けて発明を援助し続けた。 日露戦争後の好況期には多角化に乗り出し、ガス糸・絹糸などに進出。井上馨の手回しにより、1906年(明治39年)に一時、鈴木久五郎による鐘紡株買占めにより、一時鐘紡を辞職。鈴木が経営失敗に陥ると、安田銀行に株が移り、1908年(明治41年)にはすぐさま専務取締役に復帰。大正8年(1919年)にはワシントンで開催された「第一回国際労働会議」に資本家代表として出席。ドイツのクルップなどで、武藤の経営手法が模倣されていった。日本初となる『社内報』の発行のほか、鐘紡共済組合を設置し、中小業者と結んで営業税の廃止を求める営業税反対運動にも参加。1919年(大正8年)「大日本実業組合連合会」を組織し会長。 1930年(昭和5年)鐘紡社長を正式に辞任。
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