金鈴塚古墳の特徴
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金鈴塚古墳の特徴としては、まずその名称の由来ともなった金鈴などの充実した出土品が挙げられる。横穴式石室内からは全部で21口と考えられる飾大刀が出土しており、これは日本の古墳の中でも有数の数である。また石室の一部に加工された切石を用いた、先進的な技術を用いていたことも注目される。 金鈴塚古墳の重要性はその規模にも現れている。6世紀後半になると前方後円墳の築造は終末期を迎え、全国的に前方後円墳の規模も衰退が著しく、関東地方を除くと100メートル台を越える前方後円墳は見瀬丸山古墳など、大王陵と見られる古墳以外は見られなくなる。6世紀後半、関東地方ではまだ各地で100メートル前後の前方後円墳は造られていたが、埴輪が消えた最終段階の前方後円墳としては、金鈴塚古墳は関東地方最大級の古墳の一つであると評価できる。 これら前方後円墳の築造状況や副葬品の内容から、当時のヤマト王権内で関東地方が占める役割が増大していたことと、その中でも小櫃川流域の首長と見られる金鈴塚古墳の被葬者が占める地位の重要性が伺える。これはヤマトタケルの伝承にも伺えるように、古代、三浦半島から房総半島へ向かう海上交通路があり、その房総半島側の上陸点近くにある小櫃川流域の首長は、交通の要衝を押さえることによって重要な地位を占めるようになったと考えられている。 その一方、金鈴塚古墳から関東地方各地の首長との結びつきがわかることも注目される。金鈴塚古墳の組み合わせ式の石室は、埼玉県の長瀞付近に産出する緑泥片岩を用いており、荒川、東京湾の水運を用いて金鈴塚古墳まで運ばれたものと推定されている。その一方で、金鈴塚古墳の石室で用いられた千葉県富津市で産出される砂岩は、埼玉古墳群の後半期に造営されたとされる将軍山古墳でも横穴式石室に用いられている。このことからまず、金鈴塚古墳を造営した小櫃川流域の首長と、隣接する小糸川流域の現在の富津市に本拠地があった、内裏塚古墳群を造営した首長との間に連携があったことがわかる。その上、上総の首長と将軍山古墳を造営した武蔵北部の首長との間に交流があったこともわかり、これらの交流はヤマト王権の関与が及ばない、独自の交流であった可能性が高く、6世紀後半から7世紀にかけての関東地方の有力首長は、ヤマト王権内で重要性を増すばかりではなく、独自の動きも見せていたことがわかる。 房総地域は国造と古墳群との位置関係に対応関係が見られるとされ、金鈴塚古墳を始めとする祇園・長須賀古墳群は、その位置関係から馬来田国造との関連性が指摘されている。6世紀後半から7世紀にかけての祇園・長須賀古墳群は、墳長100メートルクラスの前方後円墳である盟主墳を筆頭に、中型の前方後円墳、それから円墳といった階層が見られるが、馬来田国造とも考えられる金鈴塚古墳の被葬者は小櫃川流域の頂点に立つ首長であり、その下に中堅クラスの首長、さらにはその下のクラスの首長を従え、ヤマト王権内での地位を高め、さらには隣の内裏塚古墳群を造営した首長や、北武蔵など関東の他の地域の首長との連携も進めている姿が見えてくる。 また追葬期間が長かったと考えられる金鈴塚古墳に葬られた人物が、4-5名程度の可能性が高い点について、金鈴塚古墳群を造営した小櫃川流域の首長の特色の一つとして注目する説もある。隣接する内裏塚古墳群では、多い古墳になると20体以上の埋葬が確認されているなど、多くの遺体が同一古墳に葬られており、両者の首長権ないしは首長位継承に関して何らかの違いがあったものと見られる。
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