金沢八景プランタン時代
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「イオン金沢八景店」の記事における「金沢八景プランタン時代」の解説
1983年3月に、かつてこの場所に存在した日本製鋼所横浜製作所が同区の福浦に移転した為、三井不動産・日本製鋼所・三鋼都市開発が協力して跡地(5.1ha)を再開発することとなった。計画ではA区(1.9ha)とB区(3.2ha)の二つの区画に分け、A区は核ビルと専門店街の棟と駐車場の3つで構成される金沢八景ショッピングセンターを、B区には全6棟で757戸のマンションを建設するというものだった。 計画発表後、核テナントとしてプランタンとダイエーが出店を名乗り出た。ダイエー側の当初の計画では、地上8階・地下1階建ての核ビルに出店、プランタンは1階-4階を、ダイエーは地下1階と5階-8階を使用。ダイエーには千葉県船橋市で営業していたDIY用品・インテリアなどを揃えたホームワールドや、屋上にエアロビクス教室・ラケットボールコートを作り、地域密着型の店舗にする予定であった。 しかし、商業集積の大きさから地元商店街が強く反発し、当初見込んでいた翌年の商業活動調整協議会への三条申請が出来ず、1985年秋の開業が絶望的となった。 地元との調整を続けること6年、計画を大幅に見直した上で三条申請を行い1989年11月9日に横浜商工会議所で開かれた商業活動調整協議会での結審で出店了承を受けたため、横浜に出店予定だったDマート阿久和店(瀬谷区、のちのダイエー阿久和店。既に閉鎖済み)と共に出店が決定した。 この当時の開業予定日は1991年5月1日。スーパーと百貨店の良さをミックスした日本初の試みの大型店が開業することが明らかとなる。工事なども含めた総事業費は120億円、初年度売上見込みは168億9600万円、売上目標は127億円。ダイエーが運営を行わず、ダイエーとプランタン銀座の両者が1984年に50%ずつ出資して設立した子会社ショッパーズプランタン横浜(本社:金沢八景プランタン内、資本金:1000万円)が行った。子会社であったもののダイエーが唯一、自らが手を出さなかった店舗であった。 1991年9月27日の午前9時30分に、ショッパーズプランタン横浜の佐々木社長と同区在住の主婦がテープカットを行い金沢八景プランタンが開業。開業時間までに500人が列を作った。当日の来店客は正午には3万人、1日を通して12万人に上った。売上げは、2500万円を見込んでいたが1億3500万円と好調の出陣となった。開業当初の営業時間は、午前10時から午後7時まで。年間120日に限っては午後7時30分までの営業が商業活動調整協議会で認められた。 プランタン共通のパリのふだん着の生活を提案するカジュアルデパートのコンセプトの他に、パリの小粋でおしゃれ感覚を設定して30代-40代のサラリーマン世帯を対象にした商品構成を目指した。また、金沢八景には関東学院大学や横浜市立大学に通う学生が多い為、パソコン等の情報機器・スポーツ用品・書籍の地域1番店を目指した。
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