金剛型の用兵思想の変遷
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「金剛型戦艦」の記事における「金剛型の用兵思想の変遷」の解説
戦前、戦中の大日本帝国海軍の戦略思想は、「漸減邀撃作戦」により潜水艦、航空機を利用して事前に敵戦力を可能な限り漸減し、戦艦部隊同士による砲撃戦により雌雄を決する、いわゆる「艦隊決戦」思想であった。 金剛型は第三戦隊として、潜水艦と陸上機による攻撃が行われた後に決行される夜戦において、前衛部隊(水雷戦隊・重巡部隊)の先頭に立ち大口径砲によって水雷戦隊・重巡部隊が敵警戒網を突破するのを支援した後に戦場から離脱し、黎明以降に主力の戦艦部隊である第一、第二戦隊を含む全兵力を結集して行われる艦隊決戦に引き続き参加することとなっていた。このため、金剛型は大改装の折に水雷戦隊とともに夜戦に参加できるように機関を換装し、30kt前後の速力を発揮できるようになった。 ところがいざ太平洋戦争が始まると、本来は戦艦が出撃する前の露払い役であった航空機の活躍により、艦隊決戦が行われる機会は訪れなかった。従来決戦の主役とされた長門型、伊勢型、扶桑型などは、艦隊決戦兵力とされたまま遊兵状態となった。 一方、金剛型は、空母と同一行動を取るのに十分な速力を持っていたことと、日本海軍が保有する戦艦の中では最も旧式で、攻防ともに最弱であったゆえに、損耗したとしても戦力に及ぼす影響が低かったため、使い潰しても構わない戦艦として、空母機動部隊に随伴した金剛型は、同じく随伴する水雷戦隊・重巡部隊とともに、航空攻撃の後に残存している水上艦の殲滅や、敵機動部隊に随伴する水上部隊から空母を護衛し、空母損傷時には曳航が期待されていたが、水上部隊と砲戦を行う機会は訪れなかった。 しかしながら空母機動部隊の活躍の場が多かったことから、金剛型はひっぱりだことなり、本来は金剛型4艦で第3戦隊を編成していたのが、金剛・榛名の第3戦隊と、比叡・霧島の第11戦隊に分割された。 戦争が進みガダルカナルでの苦戦が続くようになると、敵航空基地を砲撃粉砕することが陸軍により求められた。当初は巡洋艦・駆逐艦を主体とした作戦を実行していた海軍だったが、敵艦隊との遭遇戦が起きたり、砲撃に成功しても大きなダメージを与えられず早期に復旧されてしまうため、戦艦の大口径砲による撃砕が考えられた。 この際、大和型の使用も検討されたが、海面が狭く、水深が不正確なため座礁の恐れがあると猛反対を受けたため投入されなかった。その代わりに、艦隊決戦における戦力としては期待されておらず、失っても惜しくない老朽艦であった金剛型が巡洋艦部隊とともに敵航空機の広い索敵範囲の外から侵入して砲撃、さらに敵攻撃圏外への撤退を行える速力を有していたこともあり投入された。 このヘンダーソン基地艦砲射撃は艦砲射撃による被害は少なかったものの、一式陸攻による爆撃もあって敵航空機、燃料、弾薬に大きな被害を与え、一度は成功に終わったかに見えた。しかし、戦略目標である滑走路破壊に関しては戦闘機用の第二滑走路が事前偵察で発見できておらず無傷のままであり、第一滑走路自体も1日で使用可能な状態に修復されてしまった。その結果、第三次ソロモン海戦が勃発し比叡・霧島を喪失したが、残る金剛・榛名はその後も数々の戦いに参加した。 結果として、日本海軍で最も古い4隻の戦艦が最も活動する機会が多いという、皮肉な事態となった。
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