配電統制令の公布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:03 UTC 版)
「静岡市営電気供給事業」の記事における「配電統制令の公布」の解説
静岡市では、芝川筋発電所を市営化した後に安倍川水利権を放棄していたが、1930年代末になって再び安倍川開発を試み、1939年(昭和14年)3月水利権を出願して翌年1月その許可を得た。今回の許可地点は計画放棄地点よりも下流側、市街地最寄りの地点で、安倍川より取水する下村発電所(最大出力5,000 kW)を静岡市下に建設、その放流を一旦鯨ヶ池へと放流してそこからさらに静岡市有永に設置の麻機発電所(最大出力4,230 kW)にて発電、最終的に巴川へと放水するという計画が立てられた。市では両発電所の着工に向け準備を進めたものの、戦時下の電力国家管理政策によって市営供給事業自体が消滅し、安倍川開発計画はまたしても実現しなかった。 特殊会社を通じた政府による電気事業の管理・統制を目指す電力国家管理への動きは1936年の広田弘毅内閣発足以後逓信省内で具体化されるようになり、1938年3月、第一次近衛文麿内閣のときに「電力管理法」として法制化に至った。この段階での国家管理が及ぶ範囲は限定的であり、翌1939年4月に国家管理の担い手として設立された特殊会社日本発送電は既存電気事業者から主要火力発電所と主要送電線の現物出資を受けただけであった。配電事業については既存事業者に残されており、日本発送電から配電事業者に販売される電力の卸売り料金を政府が規制することで国家管理を波及させるという程度に留まった。なお日本発送電設立時の設備出資対象事業者に静岡市は含まれておらず、同社との電力需給関係もない(1939年末時点)。 続いて1940年7月に第二次近衛内閣が発足すると、日中戦争の長期化と日本発送電の機能不全を背景として電力国家管理の拡大が推進されるようになり、同年9月、既設水力発電所を含む主要発電・送電設備を日本発送電に帰属させるとともに、配電事業についても既設事業者をすべて解体して地区別特殊会社に再編するという方針が決定された。静岡市では政府方針の決定をうけて、静岡大火からの復興に電気事業の益金を充てていることを理由として市への国家管理適用を延期するよう11月より逓信省などに陳情を続けた。また公営供給事業を経営する他都市と連携し、統合には反対であるがやむを得ない場合には公営事業の統合のみを後回しとすること、簿価にこだわらない適正な統合評価額を算出すること、配電会社の配当を十分保証することなどを要求した。 翌1941年(昭和16年)8月30日、配電統制を規定した「配電統制令」の公布・施行に至る。この際、公営供給事業を失う自治体に対して政府から補助が出されることになり、反対運動は限定的ながら成果を収めた。具体的には公納金制度の創設であり、配電統制実施に伴う収入(配電会社から支払われる株式配当・利子・税金)が統合前における事業利益の95パーセントに満たない場合、差額を公納金として統合後最長10年にわたり配電会社から(その分の法人税を軽減するため実態としては政府から)交付するというものであった。配電統制令に基づき中部地方においては「中部配電株式会社」を新設することとなり、1941年9月6日、同令に基づく中部配電設立命令書が静岡市と東邦電力・日本電力など民間10社に対して発出された。
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