遺伝の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:12 UTC 版)
「グレゴール・ヨハン・メンデル」の記事における「遺伝の研究」の解説
メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは、1847年司祭として修道院の生活を始めた時である。1862年にはブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した。そしてエンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかない(滑らか)かというように対立形質が区別しやすく、さらに、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し花弁のうちで自家受粉するので、他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用した。。次に交配実験に先立って、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。 その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである。 この結果の口頭での発表は1865年にブリュン自然協会で、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは“Versuche über Pflanzen-Hybriden”(植物雑種に関する実験)であった。さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。 1868年には人々に推されブルノ修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、毎日の仕事に忙殺され1870年頃には交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった。
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