資金調達の難航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:48 UTC 版)
1994年(平成6年)の預金額8兆7,000億円をピークに、経営不安の拡大により、本州方面を中心に解約・流出が進んだ。1997年(平成9年)9月末には、預金額が5兆9,000億円にまで落ち込んでいた。道銀との合併破談以降は再び経営不安が広がり、株価も倒産警戒水準といわれる100円を割ってしまった。さらに資金調達が難しくなり、他行に比べて極めて高い金利を付けていた大口定期預金や、コール市場より資金を集めることなどで何とかしのいでいた。末期の拓銀に資金を供給していた金融機関には、主幹事の山一證券も含まれていたが、山一も同様に経営は苦しく、拓銀の味方は消えていった。 1,000万円以上の大口定期預金は、各顧客の取引状況などを勘案して、窓口に掲示してある金利に上乗せした金利を提示して預かっているが、当時は拓銀があまりの高金利で大口定期預金を集めており、各金融機関の資金運用部門からは各支店に「獲得を巡って金利で拓銀とは争うな」との厳命が下されていたという。その金利の高さは北海道財務局の担当者が「拓銀さん、こんな高レートで大丈夫ですか?」と資金証券部長に声をかけるほどだったという。 1997年(平成9年)11月4日、三洋証券の経営破綻により、群馬中央信用金庫が貸付けていた無担保コール資金約10億円がデフォルトする。これにより無担保コール市場が大混乱に陥り、各金融機関のクレジットラインは急速に縮小、拓銀はコール市場での資金調達が極めて難しくなった。同日、拓銀は北海道庁に緊急支援を求め、道は全国信用金庫連合会から500億円の融資を受け、それを拓銀に預金するという手段で資金繰りをなんとか乗り切るという有様だった。その後株価は一時59円と額面50円割れ寸前にまでなり、末端の支店にまでも融資回収・預金調達の指令が飛んだ。日銀は拓銀の資金担当に毎日5-6回電話し、資金繰りを確認したという。11月13日に日本銀行札幌支店から「もう支援できない。営業譲渡を決断してほしい」と電話で迫られ、金融当局にも見放されるかたちとなった。 11月14日、日経平均株価が約2年半ぶりに15,000円を割り込んだ。これを受け、欧米の政府金融当局者が、相次いで日本の金融に対する懸念を表明し、金融機関の不良債権処理が進まず、景気が好転しない日本経済に対する不信感が強まった。この結果、日本の銀行が資金調達する際の金利が、欧米の銀行よりも押し並べて高くなるジャパン・プレミアムが発生。日本の金融当局は、信用回復措置を取らねばならなくなり、水面下で拓銀の処理策が検討され始める。これまで拓銀は一日あたり400億円を無担保コール市場で調達しており、遅くとも午前11時頃には必要量を確保していたが、この日は12時を過ぎても確保できず、かろうじて確保出来たのは61億円に留まっていた。 この日は、日銀が金融機関の預金の一部を強制的に預け入れさせる「準備預金」の積立最終日にも重なっていた。拓銀は調達した資金を各種決済に優先して充てたため、この準備預金が目標額に達さず、過怠金約300万円を日銀に支払った。一部の幹部はこれで急場を凌いだと考えていたが、東京資金証券部はもはや限界だった。
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