財産や家政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:40 UTC 版)
家達の資産の元となっているのは1876年(明治9年)に家禄(廃藩置県後に旧来の俸禄に代えて政府が供与した禄米。家達は2万1021石だった)に代えて発行された金禄公債である。しかし徳川宗家には賞典禄が付かなかったので、家禄のみで算定され、家達の金禄公債の額は56万4429円だった。その順位は10位にとどまっており(1位島津公爵家132万2845円、2位前田侯爵家119万4077円、3位毛利公爵家110万7755円、4位細川侯爵家78万280円、5位尾張徳川侯爵家73万8326円、6位紀州徳川侯爵家70万6110円、7位山内侯爵家66万8200円、8位浅野侯爵家63万5433円、9位鍋島侯爵家60万3598円に次ぐ)、旧大藩大名の中では特段に高い方というわけではなかった。 1917年(大正6年)のダイヤモンド社発行の『全国株主要覧』によれば家達は第一銀行1万1200株、日本銀行108株、日本皮革100株、浅野セメント8355株、十五銀行5894株、合計2万5767株、市価換算で209万円分を保有している。しかし三菱財閥総帥の岩崎久弥が1794万円、島津忠義が699万円、松平頼寿が438万円、徳川慶久が204万円、徳川頼倫が183万円の株式を保有していたことを考えると特別に傑出した大株主というわけではない。 有価証券以外に土地資産があった。千駄ヶ谷の10万坪を超える敷地と豪邸(建坪は1万3000坪以上だったという)の他にも神奈川県葉山、栃木県日光、静岡県久能山近くに別荘を保有しており、山林などの所有もあったようである。 家達自身はイギリス流ハイカラ紳士であり、その生活スタイルは一見すると近代的西洋的だったが、江戸時代の封建主義の名残を残していた時代でもあり、家達も家政においては依然として「殿様」然としていた面がある。徳川公爵家には静岡藩主時代より規模を縮小しつつも家政組織が存在した。徳川家のものと見られる『家務規定』(江川素六文書)によれば家職には上から家令、家扶、家従、家丁、嘱託、雇員の階級があり、さらに家職以外の使用人に馭者、給仕、小使、馬丁があったという。1名の家令、2名から3名の家扶が使用人たちを指揮する体制を取っていたという。初期の徳川公爵家の家職就任者には旧幕府・静岡藩時代からの旧臣が多く、この場合はもちろん家達より年長者になるが、やがて同世代の者が増えていき、ついには年下ばかりになった。執事にあたる家令には溝口勝如(旧幕府陸軍奉行・旧伊勢守)、平岡芋作(旧幕府歩兵差図役・陸軍大佐)、山内長人(陸軍中将)、成田勝郎(海軍少将)、木原清(陸軍中将)などが就任した。将官クラスの軍人だった者が多いが、彼らも家政においては使用人に過ぎず、徳川家の子女たちは彼らを呼び捨てにしていた。こうした使用人と別に家政相談人があった。彼らは使用人ではなく外部の立場から家政に助言してもらうよう委託された資産家や有識者である。資産管理とその運用についての相談が大きな比重を占めていたと思われる。
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