警察の追撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 20:36 UTC 版)
午後11時25分、佳林駐在所からの電話を受けた恵山警察署の署長は非常呼集を行い、翌6月5日0時5分、大川警部率いる署員27名が自動車で出発。軽機関銃2挺、実包1000発、各員実包80発を装備していた。続いて25分、署長と署員11名、道立医院医官2名、電信工夫3名が自動車で出発した。大川部隊は道中駐在員6名を加えたのち、午前1時、佳林にて降車し徒歩で上流に向かったところ、対岸高地より銃撃を受ける。その5分後、佳林駐在所に到着した署長も銃声を聞き、今林警部補ら10名を増援に向かわせ、自身は普天堡に向かうも、略奪の後であった。大川部隊は30分交戦を続けていたが、対岸高地は沈黙。午前3時、散発的に銃撃を受けていた山衛駐在所所員と合流。その後も軽機関銃による銃撃を受け、次第に戦力を消耗した。午前11時、第6師は突撃を開始し、白兵戦となったが、山上からの合図により突然撤退。戦闘時間超過により増援に後方を遮断されるのを恐れたとみられる。 警官隊は死者7名・負傷者14名を出した。また、軽機関銃1挺、小銃6挺、拳銃1挺、制服2着が奪われた。その後、今林部隊、栗田大尉率いる恵山守備隊(毎日新報は今村部隊と満州国軍と報道)と合流し負傷者を収容、午後7時に引き上げた。第6師の損害は警官隊と住民双方の目撃情報と現場に残された血痕から、死者20名、負傷者30名程度と推測された。 これらの事件により金日成の名が朝鮮領内で報道され、日本側官憲もこの事件を重要視したことから、当初は2000円、のちに2万円の賞金が賭けられ(現在の物価に換算すると約3億円前後)、金日成の名は知られるようになった。 当時、朝鮮の東岸に繋がる鉄道、恵山線(けいざんせん)が開通間近で、恵山鎮(けいざんちん)はその終点となる都市であった。普天堡は面事務所(村役場)を中心に日本人26戸50名、中国人2戸10名、朝鮮人280戸1323名、合計1383名が居住している小さな面(村)であったが、近くにこの重要都市・恵山鎮があることから、襲撃は日本側官憲に重要視された。襲撃の後、恐怖のため住民達は次々とこの地を離れ普天堡周辺は過疎化した。 現在、一帯は北朝鮮政府によって「普天堡革命戦跡地」として整備され、普天堡革命博物館のほか、普天村役場、郵便局、消防会館、弾痕の残る警察官駐在所などが復元されており、朝鮮人民軍や学生により革命戦跡地踏査行軍が毎年実施されるなど、白頭山地区の革命聖地のひとつとなっている。
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