講和へとは? わかりやすく解説

講和へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:22 UTC 版)

オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)」の記事における「講和へ」の解説

1739年ミュンニヒ元帥率いロシア軍ドニエプル川渡って8月17日のスタヴチャヌィの戦い英語版)でオスマン軍勝利19日にホティン(英語版)の要塞占領続いてヤシ要塞占領した。しかし、オーストリア軍はグロッカの戦い英語版)で敗北8月21日ベオグラード条約オスマン帝国単独講和した。これはロシア勝利を警戒した可能性もある。オーストリア脱落した上にスウェーデンによる侵攻恐れもあって、さらにオスマン帝国スウェーデンプロイセンポーランド同盟締結したため、ロシア9月29日ニシュ条約オスマン帝国との講和余儀なくされた。講和により、ロシアアゾフ領有確定しザポリージャへの支配強固にした。しかしアゾフ領有要塞建築禁止という条件付きだった。 オーストリアにとって、戦争大敗終わり1718年パッサロヴィッツ条約得たオスマン領を全て返還するという散々な結果となったロシア軍戦場ではより成功したが、疫病数万人を失ったオスマン軍死傷者脱走者概算不可能だったミュンニヒ立てた計画懸念無視した大胆すぎたものだったが、彼の近代化したロシア軍旧態依然オスマン軍に対して優勢であるとする見込み正しかったニシュ条約の後、オスマン帝国30年間の和平享受したというのも隣国伝統的な敵国がほかの戦争手を焼いていたからであった。東のアフシャール朝とはナーディル・シャー暗殺されるまで数度戦ったが、西と北のオーストリアロシア1740年から1748年までのオーストリア継承戦争続いて1756年から1763年までの七年戦争忙殺された。しかし、30年間の和平オスマン軍ヨーロッパ戦場から追い出し戦争中進歩していった戦法発明などから置いてけぼりになり、軍事的にはマイナスだった。 戦争また、ロシアクリミア・タタール力関係明らかにした。戦争中クリミア軍はロシア領への襲撃をうまくできず、逆に伝統的に使われてきた守備ラインペレコープ地峡1736年から1738年まで3度突破され、山間部への逃亡余儀なくされ、コズロフベロゴルスク英語版)、バフチサライ宮殿英語版)が焼き討ち遭う結果となった1768年から1774年までの露土戦争ではロシア軍が再びクリミア半島侵攻講和においてクリミア・ハン国オスマン帝国保護から切り離した後、1784年クリミア正式に併合した

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