謎のFMW離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:43 UTC 版)
1995年、後藤は同年5月5日の川崎球場で行われる予定の大仁田の引退試合の対戦相手に決まっていたが、その直前になり突然退団を発表した。後藤はミスター雁之助、オーニタ・ジュニア(市原昭仁)とともにFMWを離脱、大仁田との引退試合を放棄し、それをメインイベントとしていた大会1週間前に団体を退団するというあまりの異常事態によりファン、マスコミ、FMWも大混乱に陥った。この時、開かれた退団する3人による記者会見では、記者からも事情を説明するよう強く問い糾されたが、後藤らは「大仁田引退試合を放棄し、その数日前という直前に退団を決意するだけの『何か(「裏切り行為」とも)』があった」ことや「FMWが嫌いになったわけではない」と語るだけに留まり、この時舞台の裏側で何があったのかは関係者がいずれも口を固く閉ざし、今もはっきりした原因は明かされていない。後藤も生前「真相は墓場まで持っていくつもり」とメディアの取材に対して何度も語っており、結果的に後藤自身から最後まで真相が語られることはなかった。 ただし、当事者の一人である雁之助は自身のYouTubeチャンネルの中で2021年にその真相を語っている。雁之助の話によると、引退試合二週間前の地方巡業先で後藤の欠席のもと大仁田から、「大仁田の引退後、後藤をFMWから排除する」ことを男子プロレスラー全員の前で通達された。当時アングルで敵対はしていたものの元付き人であった雁之助は、食事の席でたまらず後藤に告白した。良くは思わない後藤は後楽園大会の前日、あるホテルに雁之助、新山勝利、市原、事務員を交えて話し合いの場を設けた。まず雁之助が引退(離脱)を表明し続いて後藤、そして市原が続いた。新山は後楽園ホールへ戻って大仁田と話し合いをする、というものだった。IWAジャパンとは一切前もっての話し合いは無かったと証言している。ハヤブサの著作の中にも後藤より先に雁之助が辞めると言い出し、後藤は「お前が辞めるなら、俺も辞める!」と言った。そのくらい、我慢できないことが俺たちにはあったと述べている。なお、大仁田の引退試合の相手は後藤に代わり、一旦は名乗りを上げた東京プロレスの石川敬士に変更されたが、その後、調印式で対戦を直訴したハヤブサへ変更された。 FMW離脱後の後藤らは「真FMW軍」を名乗り、IWA・JAPANの後楽園大会に乱入。FMWで自らデビュー戦の相手を務めた中牧昭二らとの抗争に突入する。同年8月、川崎球場においてダン・スバーンのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、後藤もスバーンと好勝負を展開するも敗れた。また、大日本プロレスでは全日本時代の先輩であった社長のグレート小鹿との抗争を展開し、さらに東京プロレスにも参戦している。 この頃、アルティメット・ファイティング(UFC)で日本人格闘家が敗退し続けていたため、自分がUFCに出ると宣言するが、UFCから「デスマッチ等の流血を伴う危険な試合が多い」という理由で拒否されてしまう(実際の拒否理由は不明である。)。 1996年、第一回メモリアル力道山興行に登場した際には、メジャー団体の象徴とも言える長州力がインディー団体を批判した一方で、後藤に対しては評価する発言を行った。同年、東京プロレスを発展解消させて、乱立していたインディ団体を統一すべく「日本プロレスリング共同機構」を名乗ったFFFに冬木軍、折原昌夫らとともに参加するも同団体は旗揚げ戦前に倒産し、後藤は真FMWをベースに別団体への参戦へ活路を見出すこととなった。 1997年にはWARマットを中心に暴れ回り、同団体の武井正智社長がプロレスデビューした6月の後楽園ホール大会でも対戦相手を務めた。7月の両国国技館大会で後藤は、天龍のデビュー20周年試合としてメインイベントで一騎討ちを行った。多くのファンは両者の真っ向からの激突に期待したものの、後藤も天龍のリングシューズを脱がしにかかるなど反則攻撃に終始した。さらには経緯的にWARと対抗関係にあったSPWFにも参戦、タッグ戦ながら谷津嘉章と電流爆破デスマッチと戦うなど、後藤はインディー団体の多方面に渡って参戦している。
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