謎につつまれた崩御とは? わかりやすく解説

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謎につつまれた崩御

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 04:38 UTC 版)

ラーマ8世」の記事における「謎につつまれた崩御」の解説

詳細は「ラーマ8世アーナンタマヒドン国王崩御タイ語版)」を参照 1945年(同2488年)に第二次世界大戦終結するとともに学業終えると帰国したが、翌年変死遂げた1946年6月9日朝、ラーマ8世はボーロマピマーン宮殿自身寝室で、額から後頭部にかけて銃弾貫通した状態の死体となって発見された。傍らには自動拳銃コルト・ガバメント落ちていた。第一発見者チット侍従証言要約すれば午前9時20分頃、チットブット侍従ラーマ8世寝室前に控えていたところ、中から銃声聞こえたチット侍従中に入ってみるとラーマ8世ベッドの上頭から血を流していた」とのことである。 王宮警察直後出した声明では銃の暴発事故可能性が高いとされたが、プリーディー(タイ語: ปรีดี พนมยงค์、ルワン・プラディットマヌータムとも)内閣設置したラーマ8世崩御事件調査委員会」(タイ語: คณะกรรมการสอบสวนกรณีสวรรคต)は、1.事故、2.自殺、3.他殺という3つの可能性挙げた上で遺体の状況に基づき事故自殺説否定他殺説を採った。同年8月にプリーディー内閣責任取って総辞職。跡を継いだタムロン内閣1947年11月クーデターにより倒され直後警察上述チットブット、および事件発生時に宮殿内にいたチャリアオ侍従、他2名の計5名を、ラーマ8世殺害関与した容疑逮捕した後者の他2名は後に釈放)。3人の裁判確固とした証拠のないまま状況証拠基づいて争われ、3人は一貫して容疑否認したが、1954年10月12日最高裁判決により3人に対す死刑確定翌年2月17日バンクワン刑務所にて3人に対す死刑執行された。プリーディー元首相殺害謀議への参加疑われたが、1947年11月クーデターの際に国外亡命しており、逮捕・訴追されることはなかった。 不敬罪抵触する可能性があるので、タイではこの問題深入りすることは今なおタブーとなっている。 生前写真、特に耳の形状をもとに、生存説伝わっている。 のちにこの事件に関してラーマ9世協力の下で調査した小説家ジャーナリストでもあるウィリアム・スティーブンソンはその著作革命の王(原題:The Revolutionary King)で証拠提示し旧日本軍参謀辻政信による犯行可能性が高いと示唆した。なお、辻政信記録、『潜行三千里によれば辻は1945年タイ脱出しており、1946年6月9日中国にいたとされる

※この「謎につつまれた崩御」の解説は、「ラーマ8世」の解説の一部です。
「謎につつまれた崩御」を含む「ラーマ8世」の記事については、「ラーマ8世」の概要を参照ください。

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