謎に包まれた最後の航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 23:04 UTC 版)
「キャロル・ディアリング号」の記事における「謎に包まれた最後の航海」の解説
1920年8月19日、ディアリング号はバージニア州ノーフォークからリオ・デ・ジャネイロまで石炭を載せて航海する準備を整えた。このときディアリング号はウィリアム H. メリット(William H. Merritt)船長の指揮下にあり、メリット船長の息子スーワル(Sewall)が一等航海士を務めていた。他の乗組員10名はいずれもスカンディナヴィア系(大部分はデンマーク系)が占めていた。 8月22日、ディアリング号はノーフォークの近郊ニューポート・ニューズから出港した。しかし航海中にメリット船長が病に冒され、デラウェア州ルイスで息子とともに下船しなければならなかった。ディアリング社は彼に代わる船長を急いで探さねばならず、66歳の古参で一度は引退していたW.B.ワーメル(W. B. Wormell)を船長として、チャールズ・B・マクレラン(Charles B. McLellan)を一等航海士として採用した。 再出発したディアリング号は9月8日にリオ・デ・ジャネイロに到着し、無事に貨物を引き渡すことができた。次の航海までワーメル船長以下全乗組員に休暇が与えられたが、この間ワーメル船長は別の貨物船で働いていた旧友グッドウィン船長に偶然出会った。そこでワーメル船長は今の船の乗組員について語ったが、ハーバート・ベイツ技師(Herbert Bates)を除き、その評価は軽蔑に満ちたものだった。 12月2日、ディアリング号はリオ・デ・ジャネイロを出発し、補給のためにバルバドスに寄港した。このときマクレラン一等航海士は町で酔い、スノー号(Snow)のヒュー・ノートン(Hugh Norton)船長に対し、「自分が乗組員の訓練をしようとするといつもワーメルが妨害する」「ワーメルはほとんど目が見えず、実質的に自分がすべての運航を取り仕切っている」等の不平を述べた。さらにはノートン船長と一等航海士、および別の船の船長がコンティネンタル・カフェ(Continental Café)に居たところ、マクレランは「おれはノーフォークに着く前に船長をやっつけてやるぜ」("I'll get the captain before we get to Norfolk, I will")と暴言を吐くのを聞いており、マクレランは逮捕された。しかし、ワーメルは彼を保釈して出獄させ、年が変わった1921年1月9日、ディアリング号はハンプトン・ローズに向けて出航した。 1月28日、ディアリング号はノースカロライナ州南東部のルックアウト岬沖で稼働していた灯台船によって目撃された。灯台船の管理者であるジェイコブソン船長(Jacobson)は、外国語なまりのある赤毛のやせた男が「この船は錨を失ってしまった」と叫んできたとしている。そのままディアリング号と思われる船は通り過ぎていき、ジェイコブソン船長は不審感を抱いたが、灯台船の無線機が故障していたため、彼はこのことをすぐに報告することができなかった。彼は乗組員が船の前甲板を「うろつき回っている」("milling around")ことに気づいたが、その区域は通例、彼らの立ち入りが許可されていなかった。
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