詰将棋のバリエーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:14 UTC 版)
曲詰・あぶりだし 駒の配置で文字や図形を描いた詰将棋。初期状態の配置が文字や図形を描いているものを盤面曲詰、詰め上がり状態でそうなっているものをあぶりだしという。「あぶりだし」という呼び名は、昭和12年に渡辺進が作った作品「カ」「ミ」「風」(神風号に由来)を朝日新聞に発表する際に、加藤治郎が命名した。また、詰め手順の途中でも文字や図形が描かれるものもある。初期状態と詰め上がりの両方で文字や図形を描くものを、とくに立体曲詰と呼ぶことがある。徳川家治の創作した「七の字詰め」(初期配置が漢字の七の字)などが代表的作品である。また、曲詰を用いて祝い事などがあると詰将棋作家が祝い事にちなんだ詰将棋を贈呈するケースがある。これを祝賀詰という。 双玉詰将棋(双玉問題) 攻め方の玉も配置した詰将棋。玉方から王手をかけられたときは、王手を回避しながら詰め手順を継続しなければならない。第二次大戦直後に加藤玄夫が創作したものをもって嚆矢としていた時期もあったが、月刊誌「将棋世界」の創刊号(1937年10月号)に双玉の詰将棋が発表されており、現在ではいつから作られたのかはっきりしたことはわかっていない。現在ではプロ棋士の神吉宏充が双玉詰将棋作家の第一人者であり、多数の問題を発表している。 大道詰将棋(大道棋) もともとの意味は、露店などで懸賞と引き替えに客に解かせていた詰将棋。客から見て一見簡単に解けるようで、玉方の意外な応手で難しく作成されており、解くには有段者クラスの実力が要求されるという。転じて、このように作られた詰将棋を総じて大道詰将棋と呼ぶ。双玉問題も多い。作者は大半が不明である。露店などで解かせていたものは熱心なファンなどが記録し、出題されていた3000題ほどのうち、現在では500題近くが残っている。多くは大正時代頃の創作であると考えられているが、まれに大橋宗桂作の「香歩問題」や、高浜禎作の「やりぶすま」などなどのように江戸や明治の将棋棋士が創作した問題も出題されていた。 大道詰将棋の発祥は大正末で、記録に残る創始者は野田圭甫であり、自分が創作した鬼殺し定跡解説前の客引きとして始めたが、後には詰将棋の方が主となったという。なお、升田幸三は家出後、大道詰将棋を解いて賞金を稼ぐことで一時期生活していたと自ら語っている。 現在では露店での大道詰将棋はバザーなどで出しているものを除きほとんど行われていない。大道詰将棋の作品そのものは現在でも作られている。 香歩問題・金問題・銀問題 いずれも大道棋における一般的な問題である。大道棋の問題にはいくつかの問題群があり、各問題群には初期配置がよく似た問題が多く存在する。これらの問題群の多くは最初の持ち駒で分類され、上記のような呼ばれ方をする。 煙詰 初期状態で盤面に攻め方の玉将を除く39枚の駒を配置し、詰め上がり状態で最少(3枚)となる詰将棋。伊藤看寿の『将棋図巧』第九十九番のものが最初のものである。 詰め上がり時に玉の位置が盤面周辺ではない場合は、最小枚数が4枚になる。当初は異論もあったが現在では煙詰として認知されている。 大小詰物 初形もしくは詰め上がり図が、太陰暦における大の月小の月(その年によって異なる)に関わるもの。様々なパターンがある。
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