要人暗殺計画へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:50 UTC 版)
西南戦争は新政府の鎮圧により平定したが、この不平士族はこれを境に武力の反乱より言論による活動へと方向転換する。しかし、島田一郎、長連豪は西南戦争終焉後に少数精鋭による要人暗殺へと向かい計画に参画する同志を集めるようになった。 まず、18歳の杉村文一が賛同した。彼は忠告社の社長、杉村寛正の末弟で官位変則中学で学んだ。一方、島田、長連豪らとは別に金沢の武家生まれの松田克之、杉村乙菊、脇田巧一も大久保利通暗殺を画策し資金難や同志集めに苦慮していたが、ここに来て両者が寄り合い合流した。松田克之は23歳、生家が代々加賀藩に仕え禄300石の家柄で脇田、杉本と官立変則中学で知り合い暗殺を計画したが途中で金沢に帰県した為に凶行に間に合わなかった。 杉本乙菊は30歳、金沢生まれ45石取りの父、作左衛門の長男で平素から島田を尊敬し暗殺計画に参加した。 脇田巧一は29歳、金沢生まれ加賀藩士 脇田九兵衛の子で官立変則中学の監正となり当時、生徒であった松田と親しくなり暗殺計画に参加した。明治11年11月半ば、長連豪は東京の形勢を探り金沢の島田と逐一連絡を取りあった。 長は東京で石川県巡査の橋爪武に出会い暗殺計画を打ち明け金沢での後挙を依頼した。橋爪は警視庁巡査として西南戦争に従軍した際、九州各地を転戦した抜刀隊の島根県士族の浅井寿篤と知り合い、後に帰県中の浅井に連豪から聞き及んだ暗殺計画を漏らした。この時、浅井は職を免じられ不安になり強いて死を念じていた事もありこれに賛同しすぐさま上京し連豪に会いその熱意を以て同志の一人に加えられた。 翌1878年(明治11年)3月末、島田はいよいよ決行近しと東京に向かい金沢を発った。4月20日、6人の同志が初めて一同に参会した。大久保利通の暗殺趣意書、斬姦状は前年に島田と連豪が「最早、政府転覆の見込みはなくなった。この後は政府大官を刺殺する他なし、ついては姦物の巨魁たる大久保利通を討つことにしたので素文を書いてくれ」と陸に頼んだ物が帰県中の松田を経由して送られて来た。この斬姦状は島田の友人を通じて近事評論と朝野新聞に投稿されたが黙殺された。現存する斬姦状は島田一郎と長連豪のもので彼等が自首した時に所持していた。 斬姦状は主文と後半の大久保政権の罪5つから成っている。主文は『大久保らの有司専制は民権を抑圧して国家を浪費し国権を失墜させるなどの罪を犯しこれに反省する事なく、西南戦争まで引き起こした。そこで大久保を斬って民苦を救わんとする。』との概要で結び最後に6人の署名を入れ実印を押してある。後段には「藩閥の専制独裁」、「政府官僚の私利私欲」、「憂国の士の排訴」、「国財の徒費」、「外交の失墜」の5項目について弾劾している。斬姦状は思想的に異なる忠告社の両者義猶の発想で島田、長連豪の主張を取り入れたとは言い難いかなり自由民権的な思想が入っていると言われる[誰によって?]。
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