西正面の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:13 UTC 版)
ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。関東軍の要塞地帯と主力部隊及び国境守備隊は東部・北東正面に重点配置され、西部・北西正面の守りは手薄だった。方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、西正面に機械化戦力を重点配置していたソ連軍の一方的な侵攻を許してしまった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に進撃した。第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。同軍の先鋒はヴォルコフ中将の第9親衛機械化軍団が務めたが、アメリカ製のシャーマン戦車が湿地帯の峠道に足をとられ、第5親衛戦車軍団のT34部隊が代わりに先導役を務めた。第39軍の側面援護の下、第6親衛戦車軍は満州西部から迂回しつつ、鉄道沿線の日本軍を殲滅していった。8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を掃討しつつ満州の中央渓谷に突入した。 一方第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である第6親衛戦車軍は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と支那派遣軍の連絡線を遮断した。ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。
※この「西正面の状況」の解説は、「ソ連対日参戦」の解説の一部です。
「西正面の状況」を含む「ソ連対日参戦」の記事については、「ソ連対日参戦」の概要を参照ください。
- 西正面の状況のページへのリンク