英蘭間の政治的緊張
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「第一次英蘭戦争」の記事における「英蘭間の政治的緊張」の解説
1642年から始まったイングランド内戦中、オランダ総督のオラニエ公フレデリック・ヘンドリックは、その家族的な結びつきからチャールズ1世に財政的な支援をあたえており、それはオランダの強力な軍隊がまさにイングランドに介入しようという瀬戸際にあったほどである。ヘンドリックの子息ウィレムは、1641年にチャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートと結婚していた。ウィレム(ウィレム2世)は、フレデリック・ヘンドリック死去後の1647年3月、21歳の若さでオランダ州総督として就任した。1649年1月、イングランド王チャールズが斬首されたとき、オランダ人(ことにオラニエ家の人びと)は国王殺しの大逆罪におおいに憤慨した。その結果、清教徒革命の指導者オリバー・クロムウェルは、オランダ共和国の敵とみなされたのである。 にもかかわらず、イギリスとオランダとは多くの点で共通するものをもっていた。いずれも共和政国家であり、宗教的にはプロテスタントであった。イングランドの王党派がオラニエ家を頼りにしていたのに対し、議会派の方は同じ改革派の国としてオランダにおおいに期待しており、王党派の追放を強く求めた。オランダとしては思わぬ板挟みのかたちになった。しかし、ウィレム2世は総督となるや、君主制への野心を満たそうとした。亡父フレデリック・ヘンドリックは軍事独裁を確立することによっていつでも君主制に移れるよう試行していた。州総督および陸海軍最高司令官としてオランダを率いたフレデリック・ヘンドリックは、対スペイン戦で大きな戦果をあげてオラニエ家の威信を内外に高めたが、一方ではフランス風の宮殿を造営して宮廷生活を送り、スチュアート家やブランデンブルク選帝侯はじめドイツの諸侯とのあいだに姻戚関係を結ぶなど王朝的外交を展開していた。オラニエ家はそれまでオランダが掲げてきた連邦共和政の原理から乖離していった。ウィレム2世は、岳父であるチャールズ1世が処刑されるやスチュアート朝復活に向けて公然と活動を開始した。このとき、ウィレムに対し抵抗の意思の強いホラント州(中心はアムステルダム)は、クロムウェルの支援を求めて、漠然とではあるがホラント州がコモンウェルス(イングランドの共和国連邦)に参加する可能性があることを彼に申し入れた。オランダ国内では、オラニエ派と反オラニエ派の内訌が激しさを増していった。ウィレム2世は1650年7月、反オラニエ派の有力者ヤーコブ・デ・ウィット(英語版)(ヨハン・デ・ウィットの父)をルーヴェステイン城(英語版)に拘束したり、同族にあたるフリースラント州総督ウィレム・フレデリック(ナッサウ=ディーツ侯)と手を結んでアムステルダムを包囲したこともあった。 1651年、航海条例がイングランド議会を通過し、「イングリッシュ・ボトムス("English bottoms")」すなわちイングランド船を用いて出荷されない限り、アメリカのイングランド植民地との貿易が制限されるようになった。実際に、世界中のどこからでもイングランドないしその植民地の港に運ばれる荷物はイングランド船で搬送されなければならない、としたのである。そしてまた、航海条例は、チャールズ1世とつながり王党派に共感を示すイングランド植民地との全取引を禁止した。航海条例の諸規定を受け入れることは、オランダ人からはオランダ貿易がイングランドの貿易システムに従属するものとみなされた。これはオランダの誇りを侮辱し、オランダの中継貿易とオランダ経済に打撃をあたえるものであったが、戦争の真の原因は、オランダ船の輸送に対するイングランドの海軍や私掠船の行動であった。1651年、オランダの商船140隻が公海上で押収された。1652年1月にはその1か月だけで他のオランダ船50隻が拿捕され、イングランドの諸港に連れ去られた。ネーデルラント連邦共和国の議会(スターテン・ヘネラール)からイングランドに向けられた抗議は無駄に終わった。イングランド議会はこれらオランダ船舶の奪取を抑えようとする傾向を何ら示さなかったのである。
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