英艦隊の出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:13 UTC 版)
12月6日に英哨戒機がカモー岬で日本の大船団発見の報を受け、7日夜に英東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス中将がマニラからシンガーポールに帰投し、ポートダーウィンに向かっていた巡洋戦艦レパルスなどを呼び戻して7日に入港させた。イギリス極東軍総司令部長官ロバート・ポッファム航空元帥兼大将は、この日本船団は佛印南西岸に集結し、英軍の攻撃を誘発しようとしているかもしれないから航空哨戒を厳重にし、その行先が明らかになるまで静観することとしたが、7日は天候不良で日本船団を発見できなかった。 12月8日、フィリップス中将は極東軍総司令部を訪れ、情報を確認し、ポッファム大将の意見を交わし、英艦隊が出撃する場合に空軍の協同・支援について以下を要望した。 空軍は9日未明から艦隊の前方100浬を索敵し、艦隊はマレー半島に沿って北上する。 空軍は10日早朝からコタバルからシンゴラ方面を索敵し、艦隊は日本船団を攻撃する。 空軍は10日艦隊の上空直衛を行う。 しかし、極東総司令部では、空軍の艦隊支援は何も決定しなかった。 フィリップス中将はプリンス・オブ・ウェールズに戻り、午後2時から作戦打ち合わせを行った。当時の情報では、日本艦隊の水上兵力は戦艦1、巡洋艦7、駆逐艦20を基幹とし、潜水艦もマレー東方海面に配備されていると判断していたが、航空部隊についてはほとんどわかっていなかった。英艦隊は戦艦では優勢だが、稼動駆逐艦は旧式の4隻で、空軍の支援が期待できるかも不明であった。レパルス艦長テナント大佐が「艦隊は出撃して日本船団を攻撃する」と主張し、全員がこれに同調してフィリップス中将は日本船団の攻撃を決意し、機関待機を命じるとともに、「艦隊は8日夕刻出撃、哨戒機の誘導により10日コタバル、シンゴラに敵船団を攻撃の予定、艦隊協力索敵機及び護衛戦闘機については空軍と協議のうえ決定」と指令し、空軍司令部に赴いた。空軍司令部は、フィリップス中将が要望した支援について検討したが、10日の索敵は自信がなく、艦隊上空警戒も疑問であるとして10日の支援については後で返答すると答えた。イギリス空軍司令部はコタバル飛行場から撤退したこともあり、フィリップス提督に対し哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。フィリップス東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅することで日本軍の機先を制し、日本軍が態勢を立て直す間に英軍は増援を待つという方針だったという意見もある。事前にイギリス東洋艦隊の存在があまりにも宣伝されすぎたため、また極東イギリス連邦国民に「危機になれば東洋艦隊が出撃する」と長年にわたって約束していたため、面子の関係からも出撃しないわけにはいかなかったとする意見もある。 東洋艦隊司令部に戻ったフィリップス中将は空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡にして送付し、8日午後6時55分、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いてシンガーポールを出撃した。出撃時間は8日午後8時25分とする文献もある。英艦隊がチャンギー信号所を通過する時、空軍司令官から「遺憾ながら戦闘機による護衛不可能」と信号が届いた。また、9日午前3時に東洋艦隊司令部に残ったパリサー参謀長から、戦闘機護衛不可の他、9日の艦隊前路哨戒と10日早朝のコタバル・シンゴラ方面の偵察は実施される見込みであること、北部マレーの英空軍基地が日本の攻撃で部隊の掌握が不可能になりつつあること、日本が南部佛印航空基地群に強力な爆撃部隊を配備していることを知らされ、フィリップス中将は採るべき作戦は奇襲だけと判断し、9日中に日本軍に発見されない場合は10日早朝に日本船団を攻撃することを決心して北上を続けた。 9日午前5時30分、アナンバス諸島の南西に達し、同島の東を回って午前9時頃にその北方に達した。艦隊が半島沿いの航路を採らなかったのは、日本軍は英艦隊のこの航路を予測していると判断したためとする意見もある。マレー半島とアナンバス諸島の間に日本軍が機雷を敷設していたため、英艦隊はマレー半島沿いに北上することが出来ず、同諸島東方を迂回したという意見もある。
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