背景と任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 06:03 UTC 版)
「レディ・ビー・グッド (航空機)」の記事における「背景と任務」の解説
1943年3月18日にリビアに到着した「レディ・ビー・グッド」の搭乗員はそれが初めての作戦任務であり、機体自体も3月25日に第376爆撃航空団に配備された真っ新の新品であった。識別番号の「64」のステンシル・ペイントを機首に入れられ、愛称を前部胴体の前方右側に手描きで描かれたこの機体は、4月4日午後遅くのナポリ爆撃に割り当てられた25機のB-24の中の1機であった。 「レディ・ビー・グッド」の搭乗員: ウィリアム・J・ハットン(William J. Hatton)大尉。操縦士;— ホワイトストーン(ニューヨーク州) ロバート・F・トナー(Robert F. Toner)少尉。副操縦士;— ノース・アトルボロ(マサチューセッツ州) D・P・ヘイズ(D.P.Hays イニシャルのみ。"Dp"のみの表記例もあり)少尉。航法士;— リーズ・サミット(ミズーリ州) ジョン・S・ウォラフカ(John S. Woravka)少尉。爆撃手;— クリーブランド(オハイオ州) ハロルド・J・リップスリンガー(Harold J. Ripslinger)三等曹長。航空機関士;— サギノー(ミシガン州) ロバート・E・ラモット(Robert E. LaMotte)三等曹長。通信士;— レイク・リンデン(ミシガン州) ガイ・E・シェリー(Guy E. Shelley)軍曹。銃手;— ニュー・カンバーランド(ペンシルバニア州) ヴァーノン・L・ムーア(Vernon L. Moore)軍曹。銃手;— ニュー・ボストン(オハイオ州) サミュエル・E・アダムス(Samuel E. Adams)軍曹。銃手;— ユーレカ(イリノイ州) 搭乗員は最後に出撃した編隊の中の1機として午後3時少し過ぎにスルーク飛行場を離陸した。強い風と視界不良により主爆撃機編隊との合流を阻まれて本機は単独で任務を続行することとなった。この任務は2波に分かれたナポリの港湾への爆撃任務の後続編隊で、13機のB-24で編成されていた。 9機のB-24は砂嵐により途中で基地へと帰還したが、残る4機はそのまま任務を続行した。7:50 pmに高度7,600 m (25,000 feet)でナポリへ到達したが、視界不良により主目標への投弾はできなかった。帰路に2機が次候補の目標に投弾し、別の2機は重量軽減と燃料節約のために地中海上に爆弾を投棄した。「レディ・ビー・グッド」はイタリアからリビアの所属基地への帰路は単独で飛行していた。 午前12:12に機長のハットン大尉は通信機で基地を呼び出し、自機の自動方向探知機が機能していないことを伝え、基地の位置を問い合わせた。方位としては「レディ・ビー・グッド」がナポリとベンガジを結ぶ直線航路上を飛行していることを示していた:p.28が、基地で使用していた無線方向探知機は単一のループアンテナしか備えておらず、正逆の方向を判別することができなかった。このため当該の航空機が地中海方向から帰還の途上であろうとも基地を通り越して内陸部へ向かっていようとも方向探知機は同一の方位を示していた:pp.28-29。 「レディ・ビー・グッド」は基地を通り越し、注意を喚起するために撃ち上げられた照明弾を見落としたらしく更に2時間北アフリカ内陸部に向かって飛行を続けた。午前2時に搭乗員はパラシュートで脱出し、機体は無人のまま更に26 km (16 mi)の飛行を続けてからリビア砂漠のカランシオ砂海に不時着した。行方不明の航空機を探すためにスルーク空軍基地から出された捜索救難活動は成果を上げられずに搭乗員の痕跡も発見できなかった。
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