聖武朝での異例の昇進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:54 UTC 版)
聖武朝の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着するが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した。帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)などを献上し、ほかにも史書『東観漢記』ももたらしたという。帰朝時に従八位下という卑位にも関わらず名と招来した物品の詳細が正史に記されていることから、真備がもたらした物がいかに重要であったかが推察される。真備は渡唐の功労により従八位下から一挙に十階昇進して正六位下に叙せられるともに、大学助に任官した。この抜擢人事から、真備の唐留学の実績を高く評価して重用しようとする朝廷の強く積極的な態度が窺われる。 天平8年(736年)外従五位下に叙せられると、天平9年(737年)正月に内位の従五位下、同年12月には玄昉の看病により回復した皇太夫人・藤原宮子が聖武天皇と36年ぶりに対面したことを祝して中宮職の官人に叙位が行われ、中宮亮の真備は従五位上に叙せられるなど、急速に昇進する。さらに、天平10年(738年)橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督を兼ねた。天平12年(740年)には真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こして敗死している(藤原広嗣の乱)。 天平13年(741年)東宮学士に任ぜられると、天平15年(743年)には従四位下・春宮大夫兼春宮学士に叙任されて、皇太子・阿倍内親王の指導・教育にあたり、『漢書』『礼記』なども教授したという。また、天平18年(746年)下道朝臣姓から吉備朝臣姓に改姓している。これにより、真備の一族が下道氏が勢力基盤を置いていた備中国下道郡だけでなく、吉備地方(備前国・備中国・備後国)全域を代表する大豪族と認められたとする見方がある。しかし、藤原仲麻呂が台頭すると、天平19年(747年)春宮大夫(後任は仲麻呂派の石川年足)・東宮学士を止められて右京大夫に転じた。なお、玄昉は天平17年(745年)筑紫観世音寺の別当に左遷され、翌年に同地で没している。天平20年(748年)真備は釈奠の儀式服制の改定を行った。
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