結核進行の前兆
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1920年(大正9年)5月に発熱し、肋膜炎の診断を受けた基次郎は大阪の実家へ帰った。4か月の休学届を出し、6月は病床で小説を読み耽った。7月に落第が決定し、8月初旬から姉夫婦(共に小学校教諭)の住む三重県北牟婁郡船津村字上里(現・紀北町)で転地療養し、熊野にも行った。基次郎は、山里の素朴な自然の生活の中で自身の〈町人根性〉を反省したり、寮歌の作詞をしてみたりした。 9月に、馬車で行った尾鷲市の医者に肺尖カタルと診断され、1年休学するように言われたが、重い病状でなく、鮎獲りやメーテルリンクの『貧者の宝』を読んだりした後に実家に帰った。堂島の回生病院でも肺尖カタルと診断され、母からも学問を諦めるように通告された。納得できない基次郎は友人に〈気楽なことでもして、生活の安固をはかれ、といふ母はふんがいに堪えん〉と訴えた。 生命がある以上は各自の天稟の仕事がある筈だ それに向つて勇往邁進するのみだ。生命を培ふといふ事が万一仕事を枯らすといふ事を意味するなら死んだ方が優しだ。罪の多い生活をつないで行つて自然に死ぬまで待つ位ならぶつーとやるかずどんとやる方がいい。 — 梶井基次郎「宇賀康宛ての書簡」(大正9年9月30日付) 10月、基次郎は両親の説得で休学を一旦覚悟し、父と一緒に淡路島の岩屋や西宮の海岸の療養地へ下宿先を探しに行くが、両親と意見が合わずに学校に戻りたいと訴えた。11月から思いきって京都に戻った基次郎は、矢野潔の下宿に泊った後、寄宿舎に戻って復学し、日記を書き始めた。哲学者・西田幾多郎を道で見かけたのを機に、図書館で雑誌『藝文』掲載の西田の「マックス・クリンゲルの『絵画と線画』の中から」などを読んだ。 基次郎は、エンジニアや理科の先生になるという初心の目標に立ち返ろうと考え、北野中学時代からの同級の優等生との友情を優先し、文学をやれと勧めていた無頼派の悪友・中谷孝雄と距離を置くようになっていたが、この頃、中谷と街で偶然出くわし、奥村電機商会で働く平林英子を従妹だと紹介された(実際は恋人)。 夏目漱石の『文学論』、西田幾多郎の『善の研究』に関心を寄せ、ウィリアム・ジェームズの心理学に影響を受けたとみられる基次郎は、12月に、自分で自分自身を誇れるような人間になることを決意した。森鷗外が『青年』の中で漱石をエゴイストと批判していたことに憤慨したり、北野中学時代に惹かれた美少年・桐原真二の体に接吻する〈甘美〉な夢を見たことを日記に記したりした。
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