粟嶋神社 (海南市)とは? わかりやすく解説

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粟嶋神社 (海南市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 08:22 UTC 版)

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粟嶋神社
所在地 和歌山県海南市下津町方1101
位置 北緯34度07分08.1秒
東経135度08分59.1秒
座標: 北緯34度07分08.1秒 東経135度08分59.1秒
主祭神 少毘古那神
社格 旧村社
創建 伝景行天皇2年
本殿の様式 春日造銅板葺
別名 粟嶋(大)明神
例祭 10月13日
主な神事 ひな祭(4月3日)
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鳥居

粟嶋神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山県海南市下津町方に鎮座する神社

下津港の入江に望む加茂川の支流、宮川左岸の丘陵東中腹に、東面して鎮座する。境内に旧別当寺院である淡嶋山龍泉寺があり、明治神仏分離を免れた神仏習合時代の名残をとどめている。旧村社

祭神

少毘古那神を祀るが、和歌山市加太に鎮座する淡嶋神社と同神であると伝える。五穀豊穣、海路安全、縁結びの信仰を集め、また古来医療禁厭の神(呪医神)として医薬業者に信仰される他、淡嶋神社同様に婦人病の治癒に霊験ありと関東東北地方から四国九州に至る広い信者を有している[1]。また、当神社が淡嶋神社と祭神・信仰を同じくすることに加え、下述する寄り神信仰(漂着神信仰)も共通し、鎮座地も加太・方と共に「かた」と訓むなど(尚いえば共に令制時代の海部郡に属している)、両者の関連性は顕著であり[1]、そこから『紀伊続風土記』は淡嶋神社を勧請したものであろうと考証しているが、もとは当地の海部が信仰した綿津見三神を祀るものであろうとの説もある[2]

なお、近世には本地仏として虚空蔵菩薩が祀られていた(『紀伊続風土記』)。

由緒

社伝によれば、景行天皇2年に少毘古那神が硯浦に漂着し、21戸の村民がこれを近くの森に鎮祭したのに創まるという。当初の鎮座地は海中にあり、干潮時に干潟を伝って参詣したと伝え[3]、後に神功皇后三韓征伐の折に産気づき、凱旋するまで出産がないようにと当神社に勅使を派遣して祈願することとした際にも、勅使が風浪のために渡島できず、遠くから奉幣せざるをえなかったという[4]。なお、征伐なった神功皇后は凱旋中に船中で誉田別尊(後の応神天皇)を出産し、それを祝って自ら矢の根で少毘古那神と大国主神の神像を刻み、帰朝後に報賽として陣太鼓や着ていた「唐衣」とともに奉納したという。

文永年間13世紀後半)に硯浦から参拝の便をはかって現在地に遷座し、当時の浜中荘領家である仁和寺から広い神地が寄進されて社殿荘厳を極め[5]、以来全国津々浦々に信仰が拡大したというが[6]江戸時代宝永4年(1707年)に豊後国海部郡米水津(よのうづ)村(現大分県佐伯市米水津)の住人が参拝して奉納した金幣(金箔を施した御幣)3体や[7]寛政9年(1797年)に上州山田郷(現群馬県桐生市)の信者によって寄進された神橋(海南市指定文化財)が現存している。

明治になると村社に列し、明治末年に周辺の5神社を合祀した[8]戦後神社本庁に参加している。

祭祀

創祀に関与した21戸の村民の子孫が祭祀を継承、後世には「大頭講」という宮座を結成し、現在も祭典に与っている[9]。境内にある淡嶋山龍泉寺(現在は天台宗)は近世には別当寺であったと記録されているが(『紀伊続風土記』)、下津町上(かみ)にある長保寺との関係が指摘され、その起源は中世にまで遡る可能性があるという[10]。なお、『紀伊続風土記』は当時の神主宮本氏であると記すが、宮司職は現在も同氏が襲っている。

現在の例祭日は10月13日。4月3日にはひな祭が斎行される。

社殿

本殿は方一間の隅木入春日造。屋根は銅板葺で棟に千木・鰹木を置き、向拝軒唐破風に作る。身舎正面は引違い格子戸とし、3方に擬宝珠高欄付きの縁(大床)を廻らして後方左右に脇障子を構える。

また、切妻造妻入の幣殿と同平入の拝殿(いずれも銅板葺)があり、拝殿の正面1間には向唐破風の拝所を突出させる。他に次節に見る境内社数社があり、石段下に神楽殿と龍泉寺が、鳥居前南の池には石造神橋が架かる。

境内社

本殿両側に左脇社(南)の蛭子神社(事代主神)と浜ノ宮神社(天照皇大神)が、右脇社(北)の八幡神社(応神天皇)と百体神社が並んで東面する[11]。社殿は全て方一間春日造銅板葺。その他境内社として稲荷神社(倉稲魂神)、伝神社・八坂神社(祇園天神)、金毘羅神社(崇徳天皇)、厳嶋神社・弁才天神社(市杵島姫命)、戎神社・浜戎神社・牛神社(3社相殿)、道祖神社(猿田彦神)がある。上述のように、多く明治末年に遷祠・合祀されたものである[12]

文化財

(件名後の括弧内は指定年月日)

海南市指定文化財
  • 石造神橋(昭和50年(1975年)11月3日) - 社前の池に架かり、「太鼓橋」とも呼ばれる。寛政9年(1797年)8月に上州山田郷の治郎助という信者によって寄進された。かつては社前を流れる宮川に架かり、参道の一部をなしていたが、平成2年(1990年)に宮川の拡幅工事を行うにあたって改修の上、移築された[13]。昭和50年に旧下津町の文化財に指定され、現在は海南市指定文化財となっている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 丸山顕徳「淡島神社」(白水社『日本の神々』所収)。
  2. ^ 『下津町史』。
  3. ^ 万葉集』巻第7に収める「潮満たば いかにせむとか方便海(わたつみ)の神が手渡る海部未通女(あまおとめ)ども」(国歌大観番号1216)は当時の様を詠ったものと伝える(『県神社誌』)。
  4. ^ 社前を通る山麓の古道沿いに「幣使隈(へいしのくま)」という飛び地境内地があり、これがその折の古跡であるという。
  5. ^ 浜中(仲)荘は下津町一帯に設置されていた荘園本家近衛家
  6. ^ 『県神社誌』。
  7. ^ 米水津村との関係は南北朝時代にまで遡り、佐伯市米水津小浦に鎮座する旧郷社粟嶋神社は、正平貞治)年間(14世紀中葉)に懐良親王西国下向に際して海難に遭遇、当神社に祈願して無事に米水津に着岸することができたために、報賽として当神社を勧請、創祀したものという。
  8. ^ 詳しくは、字硯の浜宮社、字姫ノ淵の弁才天社、字宮川の道祖神社、字北原の牛神社と恵比須神社である(『下津町史』)。
  9. ^ 但し2家は断絶し、現在は19家となった由。
  10. ^ 竹中康彦「浜仲荘」及び「浜仲荘を歩く」(『きのくに〔荘園の世界〕』下所収)。竹中によると、永仁6年(1298年)の「浜中南庄惣田数注進状写」(「金剛心院文書」所収)にみえる「方堂」がそれではないかという。
  11. ^ 蛭子神社と八幡神社は近世には脇社として既に存在していた(『南紀神社録』『紀伊続風土記』)。
  12. ^ 因みに、脇社の浜ノ宮神社の旧鎮座地である字硯には「硯井」という井があり、『紀伊名所図会』には方3(およそ1メートル四方)の小井であるが冬夏増減なく、弘法大師(空海)の水として使ったとの伝えを記している。硯浦にはこの故事にちなむ硯姓を名乗る人が非常に多い。
  13. ^ 平成2年(1990年)10月設置の下津町・淡嶋神社共同名義による現地説明板。

参考文献

  • 紀州藩編『紀伊続風土記』(和歌山県神職取締所翻刻)、帝国地方行政学会出版部、明治43年
  • 杉原泰茂『南紀神社録』(『神道大系』神社編第41巻(紀伊・淡路国)、神道大系編纂会、昭和62年 所収)
  • 高市志友『紀伊名所図会』1(歴史図書社による改題復刻版)、歴史図書社、昭和45年
  • 谷川健一編『日本の神々-神社と聖地』第6巻伊勢・志摩・伊賀・紀伊《新装復刊》、白水社、平成12年 ISBN 978-4-560-02506-2(初版は昭和61年)
  • 山陰加春夫編『きのくに〔荘園の世界〕』下巻、清文堂出版、平成14年 ISBN 4-7924-0491-6
  • 下津町史 通史編』、下津町、昭和51年
  • 『和歌山県神社誌』、和歌山県神社庁、平成7年

関連項目

外部リンク




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