第1次ベルルスコーニ内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/19 07:25 UTC 版)
「ウンベルト・ボッシ」の記事における「第1次ベルルスコーニ内閣」の解説
1984年4月12日、ロンバルディア州の地域政党「ロンバルディア州自治同盟(英語版、イタリア語版)をポンティーダで設立、2年後にロンバルディア同盟へ改称した。ミラノを中心に最も経済的に豊かなロンバルディア州が、他州に税収を奪われているとする主張は一定の支持を集めた。1987年、総選挙に出馬して上院議員に当選、下院でも別の候補者が当選して計2議席を獲得した。国政での成功を期に北イタリア各地の地域政党と連合を主導し、ヴェネツィア同盟(英語版)、ピエモンテ自治運動(英語版)、リグリア連盟(英語版)、エミリア・ロマーニャ同盟(英語版)、トスカーナ連合(英語版)と選挙連合「ロンバルディア同盟・北部連合(英語版)」を結成した。 1989年、ロンバルディア同盟・北部連合は8.1%を得票して2名の欧州議会議員が当選した。ボッシは選挙連合を政党に発展させる事を働きかけ、同年12月4日に北部同盟(Lega Nord)を結成して初代書記長となった。北部各州を取り纏めてからは「北部と南部」の構図で郷土主義を扇動する方針を立て、南部が不況の北部経済を蝕んでいると主張した。「南部のテローネ」(土人)と差別的な演説を繰り返して左派から批判を受ける一方、反国家主義者として右派の民族主義も攻撃するなど、ボッシは必要に応じて立場や言動を次々と変遷させた。大企業やカトリック教会への攻撃も行うなど、持論より大衆の動向を優先するポピュリストとしての側面があった。 1992年、タンジェントポリと呼ばれる大規模な汚職摘発でイタリアの既存政党が打撃を受け、政界再編の流れが生じた。汚職の背景に南部のマフィアが存在していた事もあり、ボッシと北部同盟の過激な主張が大きくクローズアップされる事となった。同年の総選挙で北部同盟は下院55議席、上院25議席を獲得して党勢を伸ばした。1994年、同じく総選挙で躍進した中道右派のフォルツァ・イタリア、極右のイタリア国民同盟と第一次ベルルスコーニ内閣を樹立した。ボッシは地方分権政策の見直しを連立政権に求めたが、極右である国民同盟との対立から認められなかった。 1995年、北部同盟の連立離脱により第一次ベルルスコーニ内閣は早期に退陣した。
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