第1回デルポイ大祭
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「エヴァ・パーマー・シケリアノス」の記事における「第1回デルポイ大祭」の解説
パーマーと夫が組織化した第1回デルポイ大祭は、1927年5月9日に始まった。出し物は数日間にわたって予定された。これらのなかには、デルポイの劇場遺跡内でのギリシア悲劇『縛られたプロメテウス』の上演、スタジアムでの運動競技、近隣の村落の地元の手工芸品の収集品があった。大祭の準備はほぼ3年前に始まったし、退歩も思いがけない成功もいずれも特徴であった。こういう催し物を組織化するのは時間や努力、金銭を必要とする。ギリシア政府、教育機関、実業集団、利益集団の後援と協同が求められた。パーマーは、大祭の実施に必要な金銭のために、担保付き貸付金はもちろん、自分自身の相続財産からの金銭をもまた使用した。その過程で、彼女は無気力、はっきりした不賛成に、そしてときには激励や支援に、遭遇した。パーマーの第一義的な仕事は、『縛られたプロメテウス』の上演であった。これには、すべての衣裳を一から作ることはもとより、劇の監督、コロスの練習も含まれていた。プサコスは公演に真正さを吹き込むために要求される音楽の真の性質を理解しているとパーマーは感じたから、プサコスが劇のための楽曲を作るために徴募された。しかしながら、プサコスが音楽家らによる伴奏オーケストラを加えることを主張したために、彼女は愕然とした。古代ギリシア演劇は、そういうオーケストラを呼び物にしなかったし、劇場の配置はそれの収容能力を持っていなかった。劇場での上演は真正な再現が必要なのであって、もし真正さから逸脱すれば、劇の不正確な上演は不法であろうし、デルポイ大祭の全体的な呼びかけは傷つくであろうとパーマーは感じた。パーマーの心配にもかかわらず、器楽のオーケストラが加えられた。パーマーが安心しかつ驚いたことに、オーケストラの伴奏曲は大部分が聴き取れなかった。パーマーは、自分一人をギリシア悲劇・コロスの正確性と真正性のただひとつの源とは見なさなかった一方で、そういう人は誰一人として今、居ないということを知るほどには自分は論題について学んだということを感じていた。そのため、彼女は、直観はもちろん、こういう研究における背景との両者に依存する上演に取りかかった。運動競技の呼び物は、ピュロスの舞踊(Pyrrhic Dance)であったが、これは鎧を着た男性が舞踊し、足を踏みならして拍子をとる。胸当てや兜、剣、槍を製作することはもちろん、この舞踊をするくらいに献身的な男性を見つけることも記念碑的な仕事であった。その救援にやって来たのはギリシア戦争省とアレクサンドロス・マザラキス=アイニアン(Alexandros Mazarakis-Ainian)であったが、彼は天幕やトラックその他の装備はもちろん、ピュロスの舞踊にパーマーが必要とする男性全員の使用をもパーマーの自由に任せた。 大祭は成功裏に終った。劇と運動競技はギリシアの映画制作者ディミトリアス・ガジディス(Dimitrios Gaziadis)によって記録された。映画の題名は「Prometheus in Chains」であったし、1971年に上映された。ギリシアとヨーロッパの至る所の報道記事は、大祭について肯定的に書いたし、以前は理想に懐疑的な多くの報道記事は、懐疑的なのとは別な確信を抱いた。
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