第1回バークシャー音楽祭の開催(1918年)
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「エリザベス・スプレーグ・クーリッジ」の記事における「第1回バークシャー音楽祭の開催(1918年)」の解説
1916年、エリザベスはシカゴのヴァイオリニスト、フーゴ・コルチャック(英語版)から彼が率いる弦楽四重奏団への援助を求められるとこれを受入れ、彼らの活動拠点をシカゴからバークシャー郡のピッツフィールドに移してバークシャー弦楽四重奏団(英語版)とした。また、1918年にはピッツフィールド郊外のサウスマウンテンに、メンバーの住まいと「テンプル」と呼ぶ音楽ホールを建設した。 1918年の秋、エリザベスはこの「テンプル」を会場として「バークシャー音楽祭」を開催した。この音楽祭では室内楽の作曲コンクールが行われ、最優秀作品は「バークシャー賞」と1000ドルの賞金が与えられ音楽祭で演奏された。初年度は82曲の応募があり、ポーランドのタデウシュ・イアレッキ(ポーランド語版)(Tadeusz Jarecki)の『弦楽四重奏曲 作品21』が第1回のバークシャー賞に輝いた。以降、この音楽祭は1924年までは毎年、その後は1936年の第10回まで不定期に行われ、コンクールや作品の委嘱を通して室内楽のレパートリー拡大に貢献することとなる。 一方、エリザベスはこうした事業は個人レベルではなく、公的機関が引き継ぎ、一つの制度として永続的に行うべきだと考えていた。そのようなとき、エリザベスは友人の作曲家エルネスト・ブロッホを通じて、1922年にアメリカ議会図書館(Library of Congress)の音楽部長に就任したばかりのカール・エンゲル(イタリア語版)(Carl Engel)と出会う。1922年の第5回バークシャー音楽祭にゲストとして招待されたエンゲルはエリザベスに見せられたバークシャー賞受賞作品の自筆譜に興味を示し、返礼の手紙の中で、それらを議会図書館に寄贈してはどうかと提案した。こうして、エリザベスはアメリカ議会図書館をパートナーとする足がかりを得た。
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