第1回パリ大賞典とは? わかりやすく解説

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第1回パリ大賞典(1863年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:45 UTC 版)

パリ大賞典」の記事における「第1回パリ大賞典(1863年)」の解説

1863年5月31日に、新しい大競走パリ大賞典Grand Prix de Paris)」が行なわれた。皇帝ナポレオン3世夫妻は、セーヌ川下って貴賓席にやってきた。皇后純白ドレスにはエメラルドボタンあしらわれていた。ほかに臨席した王族オランダ王太子ウィリアムポルトガル王カルロス1世で、これに加えて数の外交団や官僚宮廷関係者観戦訪れた。この国際競走は、「軍事以外史上初めての英仏対抗戦」(『華麗なフランス競馬p232)であり、「少なくともフランス人にとって、英仏戦に決着付ける場」(同書)とみなされていた。 フランス代表の筆頭牝馬のラトゥーク(La Toucques)で、ラトゥークはデビュー2戦目でフランスオークスを勝ち、フランスダービー牡馬相手に2馬身半差で楽勝し1.5倍の大本命になったイギリスからは4頭が遠征してきた。その筆頭イギリスダービー際どい判定の末2着になったロードクリフデンLord Clifden)だった。これに次ぐのがサッキャロメーター(Saccharometer、イギリス2000ギニー2着で、イギリスダービーでは落馬)だが、サッキャロメーターはラトゥークが勝ったフランスダービーで4着に敗れており、フランス人にとってはラトゥークより格下思われた。このほか、ジオーファン(The Orphan)、ザレンジャー(The Ranger)が遠征してきた。 フランス人にとってショッキングなことに、勝ったのはイギリス馬4頭の中で最も人気低かったザレンジャー(The Ranger)だった。ラトゥークは1馬遅れた2着だった。3着にサッキャロメーター、4着にジオーフェンが入ったロードクリフデンは5着止まりだった。ザレンジャーの馬主が、パリ貧民賞金元手パリ市予算、つまり彼らが納めた税金だった)のために賞金一部寄付したことで、フランス人ショックいささか緩和された。

※この「第1回パリ大賞典(1863年)」の解説は、「パリ大賞典」の解説の一部です。
「第1回パリ大賞典(1863年)」を含む「パリ大賞典」の記事については、「パリ大賞典」の概要を参照ください。

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