第1回パリ大賞典(1863年)
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「パリ大賞典」の記事における「第1回パリ大賞典(1863年)」の解説
1863年5月31日に、新しい大競走「パリ大賞典(Grand Prix de Paris)」が行なわれた。皇帝ナポレオン3世夫妻は、セーヌ川を下って貴賓席にやってきた。皇后の純白のドレスにはエメラルドのボタンがあしらわれていた。ほかに臨席した王族はオランダ王太子ウィリアム、ポルトガル王カルロス1世で、これに加えて無数の外交団や官僚、宮廷関係者が観戦に訪れた。この国際競走は、「軍事以外で史上初めての英仏対抗戦」(『華麗なるフランス競馬』p232)であり、「少なくともフランス人にとって、英仏戦に決着を付ける場」(同書)とみなされていた。 フランス代表の筆頭は牝馬のラトゥーク(La Toucques)で、ラトゥークはデビュー2戦目でフランスオークスを勝ち、フランスダービーは牡馬を相手に2馬身半差で楽勝し、1.5倍の大本命になった。 イギリスからは4頭が遠征してきた。その筆頭はイギリスダービーで際どい判定の末2着になったロードクリフデン(Lord Clifden)だった。これに次ぐのがサッキャロメーター(Saccharometer、イギリス2000ギニー2着で、イギリスダービーでは落馬)だが、サッキャロメーターはラトゥークが勝ったフランスダービーで4着に敗れており、フランス人にとってはラトゥークより格下と思われた。このほか、ジオーファン(The Orphan)、ザレンジャー(The Ranger)が遠征してきた。 フランス人にとってショッキングなことに、勝ったのはイギリス馬4頭の中で最も人気の低かったザレンジャー(The Ranger)だった。ラトゥークは1馬身遅れた2着だった。3着にサッキャロメーター、4着にジオーフェンが入った。ロードクリフデンは5着止まりだった。ザレンジャーの馬主が、パリの貧民(賞金の元手はパリ市の予算、つまり彼らが納めた税金だった)のために賞金の一部を寄付したことで、フランス人のショックはいささか緩和された。
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