第三次ハリコフ攻防戦
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「クルスクの戦い」の記事における「第三次ハリコフ攻防戦」の解説
詳細は「第三次ハリコフ攻防戦」を参照 1943年上半期の第三次ハリコフ攻防戦の結果、独ソ戦の戦線はクルスクを中心にソ連側の突出部が生じた。ドイツ軍は消耗が激しく、もはや広大な戦線で大攻勢をかける力がなかったため、局地的な攻勢を行って東部戦線を安定させ、予想される西側連合国の大陸反攻に備えて必要な予備兵力を確保することが計画された。1943年3月18日、マンシュタイン元帥は陸軍総参謀長クルト・ツァイツラーに電話会談でクルスク攻撃案を伝えたが、当初ヒトラーら上層部はスターリングラード攻防戦の敗戦を重く見て、年内の戦略攻勢は諦め、むしろ戦術次元の攻勢によって持久戦に持ち込む事を考えていた。3月21日にクルスク攻撃作戦の中止とハリコフ南東、チュガーエフおよびイジュームへの攻撃準備命令が下され、翌22日マンシュタインはヒトラーへ説得を試みたが徒労に終わった。一時は凍結されるかに見えたクルスク攻勢案は前線の将軍たちの間で賛同者が増え、ツァイツラー参謀総長、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥、第9軍司令官ヴァルター・モーデル上級大将らが賛成派に回った。これを見たヒトラーも計画に同意し、4月15日に陸軍総司令部から作戦命令第6号を発令。作戦名は“ツィタデレ”(城塞)と命名され、クルスクの突出部へ先制攻撃をかけることが決定された。
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第三次ハリコフ攻防戦
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「ハリコフ攻防戦」の記事における「第三次ハリコフ攻防戦」の解説
詳細は「第三次ハリコフ攻防戦」を参照 1942年のスターリングラード攻防戦の結果、北方のスターリングラードに向かっていたB軍集団主力第6軍が壊滅したため、南方油田地帯を攻めていたA軍集団は背後を襲われる危機に陥ったが、ギリギリのタイミングで辛くも脱出に成功した。春の雪解け期がくる前に可能な限りの領土回復を目指す戦略をとるソ連軍は、引き続き進撃を続け、1943年2月18日ハリコフを落とし、ドイツ南方軍集団司令部も危機に瀕した。 しかし、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥はソ連軍も補給線が伸びきり、前進限界点に達していると分析。マンシュタインは脱出したA軍集団・残存B軍集団・増援のSS装甲軍団を展開して、数日後には一気に反撃に転じた。進撃続きで疲弊していたソ連軍は総崩れとなり、南部から次々と壊走し、3月14日ハリコフもドイツ軍の手中に戻った。 この勝利でクルスクを中心とした突出部が出来、7月のクルスクの戦いへと繋がっていく。
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