秦漢の陶磁
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秦(221BC - 206BC)、漢(202BC -220AD)の陶磁について概説する。短命王朝であった秦代の陶磁として特筆すべきものは始皇帝陵の兵馬俑である。西安郊外にある始皇帝の驪山陵(りざんりょう)の東方に位置する3つの兵馬俑坑からは陶製の戦車100余台、陶馬約600体、武士俑約8,000体が東向きに整然と列をなした形で出土した。これらは加彩灰陶である。武士俑は高さ180センチ前後の等身大で、現状は灰色を呈しているが、元は各像に赤、白、黒などの彩色が施されていた。着衣や冑、顔貌から沓に至るまで写実的に作られ、顔貌は一体一体異なっている。 漢代には中国陶磁史上初めて、本格的な青磁が登場したほか、灰釉陶器、加彩灰陶、黒陶、鉛釉陶器などが作られた。殷周から春秋戦国にかけて、青銅器文化が栄える一方で、陶磁器の発展はゆるやかであったが、漢代に至って、青磁の焼造という大きな技術的進歩があり、技法も形態も多様な陶磁器が作られるようになった。 灰釉陶器は、漢代にも作られているが、前述のように紀元前3世紀頃には一時期灰釉陶器の生産が途絶えていたようで、時代的に断絶がある。また、漢代の灰釉陶器は戦国時代のものに比べて技術的にはむしろ後退していることが指摘されている。漢代の灰釉陶器の典型的な作品は、壺などの上半部のみに釉が掛かり、下半分は赤黒く焼き締まった胎土が露出するもので、この種の作品はおおむね前漢時代後半から後漢時代前半の作とみられる。前漢前期に属するものとしては、湖南省長沙の馬王堆一号墓出土品があるが、これは印文硬陶の系統を引くもので、前述の胎土が赤黒く焼けたタイプとは異なる。 漢代において陶磁史上特記すべきことは、この時代に本格的な青磁の焼造が始まったことである。中国における施釉陶(中国でいう原始磁器)の焼造は殷代の紀元前1500年頃に始まったが、青磁と称するにふさわしいやきものが登場するのは後漢時代、紀元2世紀のことである。初期の青磁を焼いた窯は浙江省上虞窯、寧波窯などで見出されている。この時代の青磁器は、よく溶けた灰緑色の釉が器全面に掛かったもので、胎土、釉、焼成温度などの点で前漢までの灰釉陶器とは一線を画している。青磁とは、釉の成分の灰に少量含まれる鉄分が還元炎焼成によって青く発色したもので、青磁釉は成分の点では灰釉と根本的な違いはないが、焼成技術と窯構造の進歩にともない、焼成温度の調節管理が適切に行われるようになって、青系のやきものが作られるようになった。 灰釉と並んで中国陶磁の基礎釉となっているのが鉛釉である。鉛釉陶器は700〜800度前後の低火度焼成によるやきもので、呈色剤に酸化銅を用いると緑、酸化鉄を用いると褐色ないし黄色に発色し、それぞれ緑釉、褐釉となる。後の唐三彩も鉛釉陶器である。前述のとおり、戦国時代にも緑釉陶の遺品があるが、鉛釉陶器が本格的に製作されるようになるのは漢代からである。緑釉陶、褐釉陶は実用の器ではなく明器(墳墓への副葬品)として作られたもので、壺、鼎、酒尊などの容器のほか、犬や虎などの動物を表したもの、さらには楼閣、家屋、井戸、竈などを表したものもあり、当時の人々が来世でも現世と同様の生活を願っていたことがうかがえる。 明器としては、前代に引き続き加彩灰陶も作られた。雲気文を彩画した壺類が代表的な作品だが、墳墓副葬品としての人物像(俑)も加彩灰陶で製作された。 加彩灰陶女子俑 緑釉騎馬人物文壺 漢 緑釉博山酒尊 灰釉楼閣 加彩灰陶方壺
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